日本占領がもたらした「負の遺産」
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現代日本の原型をつくった長期占領
米国による日本占領は、1945年9月2日に米戦艦ミズーリ号上で行われた降伏調印式から、サンフランシスコ講和条約が発効する52年4月28日まで、6年8カ月もの長期に及んだ。一体なぜ占領期間がこれほど長期化したのか。
その主な理由は、第1次世界大戦終結後の講和がことごとく失敗したことに起因する。つまり、パリ平和会議では戦勝国だけで講和条件を取り決め、ドイツなど敗戦国側にベルサイユ条約ほかの講和条約を強要したが、この“即時講和方式”は結局ファシズムの台頭を招き、第2次世界大戦の勃発を防止できなかった。連合国側はこの歴史的結末を深く反省し、今回は直ちに平和条約を結ぶ方式を見送り、日本やドイツなど枢軸国を“平和愛好国家”へ改造することが真の近道と考え、一定期間の“占領方式”を採用したのである。
こうして手間暇の掛かる“偉大な実験”が挙行された。確かにこの実験を通じて、日本は過去の軍国主義・全体主義・超国家主義体制を払拭(ふっしょく)するといった革命的な大変貌を遂げた。米国単独統治による日本の非軍事化・民主化の成果には目を見張るものがあったと言えよう。
新憲法制定、主権在民と象徴天皇制、三権分立、男女平等、財閥解体、農地改革、教育改革、人権保障と言論の自由など、現代日本の政治・経済・社会・法制・教育・文化などの原型は、ほぼこの6年余りの占領期に形成されたといっても過言ではない。
削除された昭和天皇の「反省」
では明治維新期の西欧化路線に次ぐ、第2の戦後米国化路線は、上記の正の遺産をもって無上の天恵と納得してよいのであろうか。筆者の答えはノーである。この占領期を通じて、日本人と日本社会はある重大な歴史的失錯を犯したと言わざるを得ない。その失錯とは何か。それは戦争責任を回避したことによる自主性・主体性の喪失である。
2019年8月17日に放映されたNHKの特別番組「昭和天皇は何を語ったのか」は、その重大な歴史的過失をいみじくも明らかにしていた。これは戦後民間から初めて宮内庁長官に抜擢(ばってき)された田島道治の「拝謁記」5年間(1949~53)に依拠してドラマ化されたものである。戦前の“現人神(あらひとがみ)”から、戦後「人間宣言」をして“国民統合の象徴”となった天皇いわく、「私は“反省”というのがたくさんある」、その一つが「敗戦の責任」であると。明治憲法下、軍の統帥権を握る天皇ではあったが、実質的な決定権がない立場から“無答責”とされ、「法律上の戦争責任はない」と米国側から認定された。ただし南原繁東大総長などは“道徳的責任論”を唱え、天皇の退位を促した。しかし 連合国軍総司令部(GHQ)の頂点に立つダグラス・マッカーサー元帥がそれを抑止したことで、1948年時点での天皇退位問題は収束する。
しかし講和論が浮上すると、天皇は再び戦争責任を口にするようになった。独立回復となれば、天皇が声明を発することになる。そこで天皇は田島に対し、その際、自己責任をカムフラージュするか、実情を国民に話すべきかを問うた。51年9月8日にサンフランシスコで対日平和条約が調印され、条約発効が近づくと、天皇は「私は反省という字を入れねばと思う」と発言する。これは田島らを逡巡(しゅんじゅん)させたが、その要望を入れた草案が吉田茂首相に送付された。すると吉田から、「かつて無き不安と困苦とを招くに至ったことは、遺憾の極み…」との一節を削除せよ、との指示があった。不満の表情を見せた天皇も、結局これに同意し、52年4月28日の平和条約発効と独立回復を経た5月3日、戦争への反省に触れない天皇の「お言葉」が表明されたのである。
「自己保身」が招いた戦争責任の封印
もしこの時、天皇退位が実現していたとすれば、以後の日本の情勢はどう推移したであろうか。かつての最高権威者が戦争責任を具現化したとなれば、旧軍部以下、政官界、経済界、言論界、教育界、また地方にまで激震が及んだであろう。終戦直後の東久邇内閣が“一億総懺悔(ざんげ)”を唱えながら、戦争責任問題を等閑に付し、GHQの突然のパージ(指導者追放)指令によって日本列島はパニック状態に陥るが、そのような他律的な矯正ではなく、天皇退位は自律的かつ主体的に太平洋戦争への道を自省する重要な契機となったに相違ない。“鬼畜”米英から“礼賛”へと豹変(ひょうへん)した国民とて同様であったろう。それは国内にとどまらず、アジア諸国や世界に対しても日本の新たなメッセージとなったであろう。ところが逆に戦争責任を封印し、真実を糊塗(こと)する道を選んでしまった。日本が主体性と自信を失った瞬間でもある。その意味で、天皇退位か否かは戦後史上の決定的メルクマールであったのではないか。
では一体なぜ吉田首相は天皇が戦争責任に論及することに異を唱えたのか。臆測を交えれば、第1に、当時自由党内では権力闘争が激化しており、鳩山一郎らの反吉田勢力が憲法改正と再軍備論を掲げ、これが天皇の再軍備容認論に結びつけば、一気に政局となり、首相の座が脅かされると恐れたこと。第2に、戦争責任から天皇が退位すれば、自己の退任論にも波及する可能性があったこと。第3に、朝鮮戦争の特需景気により、困窮のどん底にあった日本経済が息を吹き返しており、今は過去の問題よりも将来の問題を優先すべきだと考えたこと。第4に、皇太子(現・上皇)が15歳の未成人であったことなどがその理由であったろう。
上記の第3と第4は、吉田独りではなく、広く国民も共有する問題であったが、第1と第2は明らかに吉田の政略上の問題であり、自己保身に走ったに等しい。政争の渦中にあったとはいえ、政治家として吉田は歴史的視野に立った哲学的思索を欠き、近視眼的に日本の物質的回復を志向した、との非難は免れない。戦争責任に対して明快な結論を下すという千載一遇の機会を失ったことは、戦後日本にとって最大の不幸であった。
甘えの構造を定着させた吉田路線
吉田にはもう一つ負の遺産がある。吉田は吉田路線という戦後日本の骨格を固めた功労者と評されるが、本人の真意はともかく、吉田路線は日本社会に“他力本願”という甘えの構造を定着させた。実は野党や鳩山らの反発は、吉田の独善的姿勢や非民主性ばかりでなく、その対米依存政策にもあった。これでは「真の独立ではない、仏作って魂の入れ忘れだ」と。日本は1960年代以降、奇跡とも呼ばれる高度経済成長を遂げた。この間に物質的豊かさが追求されても、精神的自立性や主体性は放置された。果たしてその結果はどうなったのか。90年代初頭、湾岸戦争時に経済大国日本の国際貢献の在り方が国際社会からバッシングを受けた。「カネは出すが、人は出さず、まして汗も血も流さない」と。改めて政府も国民も“一国平和主義”で他力本願主義の末路を悟らされたのである。
ただし、「経済重視の吉田路線は現状に合わない」「日本の実力に釣り合う国際的役割を志向しなければならない」と、“脱”吉田路線を掲げた首相がいた。それが大平正芳と中曽根康弘である。大平は「総合安保」と「環太平洋構想」を、中曽根は経済大国に匹敵する政治力と安全保障上の役割を提起した。ところが新聞・テレビなど指導的世論はこれを評価せず、ほぼ無視した。国民世論も無難な吉田路線を支持した。もし日本世論が客観的に自己省察を深めていたならば、湾岸戦争時の対日非難は別の形を取っていたのではないか。ここでも日本人社会に病巣化した他国依存主義と主体性・自主性の欠如があり、その根底には、戦争責任を等閑視した負の遺産を見ることができるように思われてならない。
バナー写真=米国大使館にダグラス・マッカーサー連合国軍最高司令官(左)を訪問された天皇陛下。1945年9月27日撮影(時事)