「先輩」の里帰りを温かく迎える台湾人——建成小学校創立100周年から見えたこと

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権田 猛資 【Profile】

2019年に創立100周年を迎えた台湾台北の旧建成小学校。同窓生らが母校を訪問し、在校生と交流した。日台の複雑な戦後史に翻弄されながらも、彼らは故郷への思いを持ち続けていた。

2018年に同校に赴任した黄啟清校長はもともと歴史教師で、創立100周年と里帰り企画を前に、自ら教壇に立って生徒たちに学校史や校舎の特色についての授業をした。さらに、当代芸術館と協力して、生徒がガイド役を務め、市民に学校建築を紹介する企画を実施したりもした。黄校長は、「古い学校建築が残っているため、自然な形で歴史と向かい合える」として、今後も学校史教育を続けていきたいと話している。

日本統治時代の台湾の初等教育機関は、内地人(日本本土出身者とその子孫)の子弟を対象とした「小学校」と、漢人系住民の子弟を対象とした「公学校」、また、原住民族を対象とした「蕃童教育所」に分かれていた。

内地人向けに設置された建成小学校には、ごく少数ではあるが、台湾人も通っていた。当時、台湾人が小学校に入学するのは容易なことではなかった。厳しい試験が課され、面接試験で尊敬する人を尋ねられ、「天皇陛下」と答えるべきところを「お父さん」と答えてしまい、入学が許されなかったという逸話も存在する。

創立100周年記念大会を開催するにあたり、古い名簿を頼りに建成小学校に在籍したことがある150人以上の台湾人に招待状を送付した。その中心となったのは、第20回卒業生である陳淑英さんだった。

陳さんは、戦後、米国に渡って世界銀行で勤めるなど海外生活が長かったため、これまで同窓会にはほとんど参加できなかった。「長い間、学校のために何もできなかったから」という気持ちもあって、今回の大仕事を自ら買って出たという。準備期間中に筆者が陳さんの自宅を訪ねると、出欠回答があったものと、宛先不明で戻ってきたものや、遺族によって記された物故の知らせを丁寧に分類していた。連絡がとれない人も多かったが、同窓会には台湾からも11人が出席した。

日台双方の同窓生とサポートスタッフ(片倉佳史氏撮影)日台双方の同窓生とサポートスタッフ(片倉佳史氏撮影)

戦後台湾の歴史が持つ意味

実は、台湾人卒業生は母校への想いを口にできなかった時代もあった。それは、戦後の台湾が歩んできた歴史から考える必要がある。

1945(昭和20)年8月の敗戦で、半世紀にわたった日本統治時代は終わり、台湾は中華民国・国民党政府の統治下に入った。1947年には統治者による賄賂や汚職、横暴な振る舞いに対する市民の不満が爆発し、二二八事件がぼっ発。1949年には戒厳令が発令され、87年に解除されるまでの38年間、台湾は政治的弾圧や言論統制を強いられた。

建成小の現地人の同窓会組織である「同學會」は、第21回卒業生の藍昭光さんが取りまとめ役を務める。藍さんによると、戦後、1946年に建成小学校が廃校となり、台湾人の生徒は転校を余儀なくされた。その後、校舎は台北市政府(市役所)として使用された。学び舎がなくなったことで、先輩と後輩のつながりも切れてしまった。このため、内地人の同窓会組織と比べて結束が弱いという。さらに、中華民国・国民党政府が発令した戒厳令の影響で、集会や結社の自由がなく、長年同窓会を開くことすらできなかったことも影響しているという。

現在は、台湾人卒業生たちは、月に一度、台北市内の日本料理店に集まっている。高齢化のため、徐々に参加者は減っているが、台北市内の他の小学校の卒業生も交えて、昔話に花を咲かせている。

総統府を見学。陳建仁副総統とも記念撮影を行った(片倉佳史氏撮影)
総統府を見学。陳建仁副総統とも記念撮影を行った(片倉佳史氏撮影)

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台湾国立政治大學大学院修士課程。1990年生まれ。主に戦後の日台関係史を研究。また、バシー海峡戦没者慰霊祭や廣枝音右衛門氏慰霊祭の事務局長を務める。

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