いとしき日本、悲しき差別――属性で規定されない世界を夢想して
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「日本には差別なんてない」と頭がお花畑の右の人が言う。
「日本は差別大国だ」と社会に失望した左の人が言う。
今日の日本で、差別について語ることはますます難しくなってきていると感じる。差別を指摘するとしばしば過激派と見なされ、即座に「パヨク」「反日」などのレッテルを貼られ、「差別ではなく区別だ」というもっともらしい反論ではぐらかされ、場合によっては「そんなに日本が嫌なら出ていったら?」と嘲(あざけ)られる。しかし、どの国、どの共同体にも差別は存在し、それを指摘することは当の共同体に対する攻撃には直結しない。臭い物に蓋(ふた)をしても、桶の中でぷんぷんする悪臭はいずれ溢れ出る。にもかかわらず、溢れ出る不快な臭いにも見て見ぬふりをしようとし、時にはきつい香水を吹きかけてそれをかき消そうとする今の社会の雰囲気には、とても違和感を覚える。何かが腐って臭っているのなら、臭いの発生源をきちんときれいにするのが正しい対策ではないだろうか。
日本という国を無条件に擁護し、「美しい国・日本」と褒めそやすことも、この地に居住している愛しい人間の存在を無視し、「差別大国」と貶(おと)すことも、私はしたくない。日本でも台湾でも、私は人間の温もりを垣間見たことがあり、涙ぐみ、憤るような差別を受けたことがあったからだ。
異郷が故郷になった瞬間
台湾から脱出を図り、日本へ渡ってきたのは二十代前半だった。十代から二十代前半の私は、台湾で数々の暴力を受けていた。世界から孤絶した幾多の暗い夜、その根源にある、理不尽に押し付けられた生の在り方、今でさえ回想すると涙が溢れ出てくるような記憶、それらの物事から逃れようと日本へ渡った時にやっと手に入れた僅かな自由の空気に、二十代前半の未熟な私はどれほど救われたことか。そんな私を受け止めてくれた日本が、日本語が、実に懐が深い存在だと今でも思っている。私にとって日本は異郷ではなく、第二の故郷である。
日本との確かなつながりができたのは、東日本大震災があった春だった。当時大学生だった私は交換留学で東京へ渡ってきたのだ。地震に見舞われたばかりの東京は、しかし台湾での人間関係で悩まされていた当時の私にとって避難所のように感じられた。誰も知り合いのいない土地に一人で住むのは寂しくもあるが、それ以上に心地良かった。人嫌いというわけではない。誰かとつながり過ぎるのを恐れていただけだった。東京の人間は他者と適度な距離を取り、他者の個人的な領域に無闇に踏み込むのを避ける傾向がある。その距離感は私には好ましかった。
一年間の留学生活で、私はさまざまなサークルやイベントに参加し、ゆっくり人間関係を展開していった。今はなき、女性が好きな女性のための友達作りイベント〈ピアフレンズ for girls〉(通称〈ピアフレ〉)で、後に続く友人が何人もできた。
交換留学というのは帰国を前提としたプログラムである。一年後、帰国を控える私に、〈ピアフレ〉の友人数人が送別会をやってくれた。新宿西口のレストランでビュッフェを食べた後、都庁の展望台に上って夜景を堪能した。終電が近づくと新宿駅で解散し、それぞれのホームへ向かった。東京メトロのホームで電車を待っていると、ふとピアフレメンバーの一人、K氏から電話がかかってきた。
「どうしたの?」
私が聞くと、K氏はもごもごした声で言う。
「あのさ……もう電車に乗った?」
K氏のハスキーボイスが電話越しに耳殻(じかく)に伝わった。
「まだホームだけど、電車もうすぐ来るよ」
「急で申し訳ないけど」
「うん?」
「今日……オールしない?」
K氏は元々、意表を突く言動をたまにする人だったが、その急な申し出は私にはうれしかった。当時、K氏はもう一人のピアフレメンバー、T氏とは恋仲だった。しかし数か月付き合っているうちに二人の関係性が行き詰まり、そんな中でT氏とも仲が良かった私は何度かK氏の恋愛相談に乗った。オールしようという急な申し出をしたのも、私に相談したいことがあったからだろう。名残り惜しいという気持ちもあったかもしれない。ともかく、知り合って数カ月しかたたない、おまけに滞在期限付きの留学生の私を、K氏は信用してくれていた。そのことがうれしくて、2月の寒冬の中でも暖かい塊が胸の底から込み上げた。
本当は翌日に別の場所で、別の人とランチを食べる予定があった。今ならそんな元気もないだろうが、当時は翌日に予定があるにもかかわらず、私はオールを快諾した。
私達は一度解散したメンバーを再び招集し、アルタ前で待ち合わせることにした。一行は新宿二丁目にある〈ココロカフェ〉に入り、グラスを片手に一夜を語り明かした。話の内容は何一つ覚えていないが、机に置いてあるキャンドルの火で遊んでいたこと、そして瞼(まぶた)がとても重くて何度も寝落ちしそうだったことだけは覚えている。数時間後、にじむように降り注ぐ朝日の中で、私達は二度目の解散をした。今度は本当に解散なのだ。この人達に次いつ会えるか分からない。そう思うと涙ぐみそうになった。
別れ際に、T氏がかけてくれた言葉は今でも忘れられない。
「今度また日本に来た時、『ようこそ』じゃなくて、『おかえり』って言ってあげるね」
恐らくそれが私にとって、日本が異郷から故郷に変わった瞬間だろう。いつか絶対また日本に来る。山手線の車内で端っこの席を確保して目を閉じ、微睡(まどろ)みに浸りつつ私はそう思った。再び目を開けたとき山手線は既に何周か回った。渋谷駅で降り、私はそのまま次の約束の場所へ向かった。
第二の故郷でも、外国人は外国人
その一年半後に、私は再び日本に上陸した。それが今に続く滞在である。
「第二の故郷」での生活はいつの間にか6年がたった。振り返ると、台湾のどの都市よりも私は東京に詳しくなり、また愛着を抱くようになった。日本語が堪能で、外見も日本人と変わらないため、東京生活では自分が外国人であることを意識させられる場面が少ない。留学生の奴隷労働など、日本社会のどこかで確実に起こっている、外国人が食い物にされているような事態も、私は幸いあまり経験せずに済んだ。
それでも外国人差別に直面した瞬間が、私にもあった。部屋を借りる時である。
去年、フリーランスに転身することを機に住居を変えた。2年半ぶりの引っ越しである。その前は会社の寮に住んでおり自分で部屋探しをしたわけではないため、この国の賃貸市場には根強い外国人差別があることを私は忘れかけていた。いざ部屋を探そうとすると、たとえ永住許可を得ていても、どれほど日本語が堪能でも、安定した大企業に勤めていたとしても、書類上は外国籍である、たったそれだけの理由で問い合わせの段階で何度も拒否された。
辛うじて家賃が負担でき、間取りも設備もまあまあ気に入り、外国人でも入居が可能な物件を見つけたはいいが、今度は保証会社利用料で問題が生じた。物件を管理している不動産会社のルールでは、外国人は日本人と違う保証会社を利用しなければならず、日本人の保証会社利用料は賃料の50%で、外国人は100%だと告げられた。
こんな差別的な待遇は受け入れられるものではないと考え、私は不動産会社の担当者と交渉してみることにした。担当者は25歳くらいの気さくな好青年で、私がルールの差別性を指摘すると、彼も「確かにそうだ」と認めた。その上で、日本人と同じ条件で入居できないか、本社に掛け合ってみると約束してくれた。翌日に彼から折り返しの電話があった。彼の努力の結果、本社も私の言い分に耳を傾け、日本人と同じ保証会社を利用することを認めてくれた。
やっとオーナーよし、不動産会社よし、借り手よしという状況になったが、ところが今度は保証会社の方で突っぱねられた。〈全保連株式会社〉という名の、話を聞くと業界最大手らしい保証会社が、借り手が外国人と聞くと連帯保証人を立ててくれと言ってきた。本来、保証会社というのは連帯保証人のいない借り手のための保証サービスである。なのに連帯保証人を立ててくれと要求してくるのはどういうわけか、私は首を傾げずにはいられなかった。しかも日本人じゃないという、それだけの理由で――私はすぐさま〈全保連〉に電話し、交渉しようとした。しかし電話に出た男は話し合う気が全くなく、「うちはそういう決まりなんで」の一点張りだった。結局私は、日本人の二倍以上の保証会社利用料を支払わざるを得なかった。
時事通信社の報道によれば、半分近くの外国人は部屋を借りる時、「外国人である」というそれだけの理由で入居拒否を経験しているらしい。私に言わせれば、これはとても真実味のある数字だ。いや、もっと多くてもおかしくない。
国籍だけで人間を判断し、入居を拒否したり高い料金を徴収したりすることは、たとえ違法でなくても紛れもない差別である。そうした賃貸市場の根強い外国人差別問題は、恐らく構造的な課題がいくつもあるだろう。一っ飛びで解決できるものではないかもしれない。しかし差別があることを認め、問題を解決しようという姿勢がまず重要である。単純労働分野でも外国人労働者の受け入れを加速している今こそ、問題に向き合わなければならない。
属性で規定されない世界を夢想する
信念や信条と言えば大仰だが、私にはいくつかの理想、あるいは夢想がある。人間はその出生地や国籍、性別やセクシュアリティ、人種や肌の色などの属性によって、規定されることなく、制限されることなく、自らの意志で人生の進路を選び、自由に生きられるべきである――改めて言語化すると夢想でしかないなと笑えてくる。しかし、自分の意志で、自由に、好きなように生きてもわがままと言われないような世界が、どれほど風通しの良いものか。振り返れば、私が書いてきた小説でもそんな世界に対する希求の念がにじみ出ているのではないかと思う。
『独り舞』の主人公・趙紀恵は、過去の傷から逃れようと台湾から日本へ渡り、それでも「自分自身」からは逃れきれない故、今度は人生そのものから逃れようと死の跳躍を試みる。「誕生とは自身の意志と無関係に生を押し付けられること。その不条理さに対抗する術(すべ)が無いのなら、せめて逃避を選ぶ権利はあってもいいはずだ」、そう語る趙紀恵が下した決断は、自己決定権の極致的な行使なのかもしれない。『五つ数えれば三日月が』の主人公も、話す言葉、住む国、勤める職場、さまざまな事柄を自ら選択できるようになるまでには、色々な規定と制約を受ける不安定な少女時代を生き延びなければならなかった。
私達はさまざまな属性を生まれた瞬間から不可避的に背負っている。そんな属性を引き受けつつ、それによって規定されない世界を、私は夢想したい。女/男だから、同性愛者/異性愛者だから、外国人/日本人だから、トランスジェンダー/シスジェンダーだから――そんな言葉が意味を持たなくなった時に、人間はやっと、ただの人間という純粋な存在に戻り、自由になれるのかもしれない。
バナー写真=show999 / PIXTA