洋食:西洋料理を独自に進化させたニッポンの味
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『ミシュランガイド東京2019』において星付きレストラン、料理カテゴリー、掲載店の数がともに世界一になった、自他ともに認める美食の国ニッポン。日本で西洋料理が食べられるようになったのはおよそ150年前のことだが、その間に紆余(うよ)曲折を経ながら洋食としてめざましい“進化”を遂げてきた。
「西洋料理」と「洋食」には、明確なニュアンスの違いがある。オリジナルを比較的忠実に再現した西洋料理に対して、伝統的な日本料理を指す「和食」と区別するために用いられてきたのが洋食である。西洋風でありながら日本人の味覚や食習慣に合わせて発展した日本独自の創作料理だ。前者は高級料理としてパンと一緒にフォークとナイフを使って食べるのに対して、後者は庶民的な食堂のメニューとしてごはんと一緒にお箸を使って食べることが多い。
日本の洋食事始め
洋食の歴史は明治時代の幕開け(1868年)とともに本格的に始まった。和と洋は、例えば和服と洋服、和室と洋室のように日本でごく日常的に使われている言葉だが、その使い分けは明治新政府が推進した「文明開化」に端を発している。
明治維新以前、日本では殺生を禁じる仏教の影響により、また牛馬は農耕に使役するための動物でもあったので肉食は禁忌(タブー)とされていた。そこには庶民のぜいたくを抑えようという江戸幕府の思惑もあったようだ。ところが明治新政府は、肉食、特に牛肉を食べることを文明開化の象徴と考えて奨励したのである。
理由は、不平等な通商条約を結ばされた欧米諸国と対等な立場となるように国力を養うためだ。肉食で西洋人のような立派な体格になることを目指したのである。
そんな中で、後に和牛のトップブランドとなる「神戸牛」や「米沢牛」といった、本来農耕用に育てられた日本の牛が食用とされて畜産業が育っていく。それらのおいしさを発見したのは、牛肉料理を愛してやまない国民性の英国人だったそうだ。
洋食に話を戻そう。上野精養軒など西洋料理店の顧客は、当時は特権階級に限られていた。一方、東京きっての繁華街だった浅草では、そうした西洋料理の噂(うわさ)を聞きつけた新しもの好きな庶民が、「ハイカラな料理を食べてみたい」という思いを募らせていた。やがて彼らの願いがかない、浅草に日本酒やごはん、味噌(みそ)汁と一緒に西洋料理を気軽に楽しめる洋食店が次々とオープンしていく。
肉を柔らかくジューシーに仕上げた「とんかつ」
浅草・上野界隈(かいわい)を代表する洋食といえば、「とんかつ」である。「ゆたか」、「井泉」などの老舗とんかつ専門店が今も点在している。ほとんどの店ではごはんと味噌汁が付き、あまりにも普及し過ぎたため多くの日本人の間ではもはや洋食と認識されていないほどだ。
とんかつは、ヨーロッパの「カツレツ(コートレット、シュニッツェル)」をもとにした料理だ。ヨーロッパでは衣を付けた薄い肉をフライパンで揚げ焼きするところを、明治時代の日本のシェフは衣を付けた厚めの肉を油を入れた深鍋で天ぷらのようにディープフライにした。そうすることで肉が柔らかくジューシーに仕上がる。キャベツの千切りを添え、英国のウスターソースをヒントに日本で開発された粘度のある「とんかつソース」をかけて食べる。
とんかつは東日本でとりわけ好まれている。日本列島は大きく東西に文化圏が分かれるが、江戸時代の頃、農耕用に主に馬を使っていた東日本では豚肉が、牛を使っていた西日本では牛肉が普及した。特に近畿地方では、とんかつの代わりに牛肉のカツレツがローカルな洋食として長年愛されてきた。「ビーフカツレツ」「ビフカツ」とも呼ばれるが、前者はやや高級な料理、後者は庶民的な料理と、微妙に扱いが違う。
また、日本古来のどんぶりごはんに、たまねぎとだし入りたまごで閉じたとんかつを載せた「かつ丼」はそば屋で誕生したものだが、和洋折衷料理の傑作だと個人的に思っている。
インド由来の料理ではない「カレーライス」
カレーライスは、もともと旧日本海軍の食事だった。海軍は英国海軍をお手本にしていたので、食事も英国領だったインドのスパイス(カレー粉)をシチューに加えた英国式カレーがメニューに加えられたのである。
カレーライスはインド由来の食べ物ではない。ゴアなどキリスト教徒が多い土地は別として、牛を神聖な動物として崇(あが)めるヒンドゥー教徒が大多数のインドではまずあり得ない牛肉(もしくは不浄とされる豚肉)を使うからである。
現在の海上自衛隊は旧海軍のしきたりを受け継いで、牛乳、サラダ、福神漬けをセットにして船上で決められた曜日にカレーライスを食べる。これは長い航海の間で曜日の感覚を失わないようにするための工夫だという。
カレーライスは、昭和の時代になって手軽にカレーを作れるルーが市販されたことで家庭料理として定着した。カレーうどん、カレーピラフなどの派生料理も数多く、カレーライスは今や日本の食べ物としてインドへ進出するまでになっている。
日本最古の洋食?「南蛮漬け」
明治時代に始まった洋食の歴史だが、ヨーロッパ起源としてはもっと古い時代に伝播(でんぱ)された料理がある。16世紀、九州にポルトガル人がやってきた。彼らは鉄砲を日本に伝え、その大きな目的はカトリックの伝道(そして最終的な野望は植民地化)だったが、同時に食文化も広めた。
代表的なものは、揚げた白身魚をマリネ漬けしたエスカベッシュを原型とする「南蛮漬け」。しょうゆで味付けするなど日本人好みに変えているが、作り方はほぼ一緒。
また現在、日本を代表する料理とされている天ぷらの語源はポルトガル語で、ポルトガルのフリットをもとにしているとも言われる。例えば、通常、天ぷらの衣に味は付かないが、長崎の天ぷらは衣に味を付ける。ふっくらとした見かけもフリットによく似ている。
戦後は小麦粉を使った洋食が普及
明治時代以降の洋食はどう発展していったのか。そこには第2次世界大戦の戦勝国の一つである米国が深く関係してくる。終戦の翌年である1946年、日本全体が明日の食料もままならない貧窮にあえいでいた時、ララ物資と呼ばれる莫大(ばくだい)な救援物資が在米日系人の立ち上げた団体から届いた。
その中には、食品の原料として大量の脱脂粉乳や小麦粉が含まれていた。子どもたちの栄養状態を改善するため、そうした小麦粉で作られたパンが学校給食のメニューとなった。その代表的なパンが「コッペパン」である。
米国は引き続き、余剰小麦を日本に輸出する戦略を立て、日本人の食生活を大きく変えていく。それによってパン食が一気に広がったのである。またスパゲティやピザ、ハンバーガーなど小麦粉を使った料理も定着していき、それぞれが洋食として独自に発展を遂げていった。
例えば、「スパゲティナポリタン」。ハムやたまねぎなどの具とともにスパゲティをケチャップで和(あ)えて油で炒めるという調理法は、イタリアではあり得ない。ほぐしたたらことバター、塩、こしょうを麺に絡め、刻んだ海苔(のり)を載せた「たらこスパゲティ」も、渋谷の老舗パスタ専門店「壁の穴」で発明された料理だ。
また、日本のハンバーガー・チェーン「モスバーガー」から発売された「照り焼きバーガー」とごはんのバンズを使った「ライスバーガー」は、今では海外でも人気の商品である。
食はその土地の風土や国民性に影響されて常に変化していくものだ。すしや天ぷらは海の向こうからやってきたものだが、長い歳月をかけて和食として定着していった。大陸から隔絶された島国という日本の地勢は独創性を育むのに最適であり、また雨の多い気候は屋内で研究にのめりこむ「オタク」気質を生み出しやすい。自動車などと同様にオリジナルを改造して独自に進化させるのは日本人の最も得意とするところだが、近代化以降、食の分野においてその能力を最大限に発揮して生み出されたのが洋食ではないだろうか。
訪日旅行者の方々には、庶民が愛してやまないこの西欧風日本料理をぜひ味わってほしいものだ。
バナー写真=キャベツの千切りの盛り合わせが付く「とんかつ」定食。ご飯と味噌汁、お新香(しんこ)と一緒に食べる「洋食」の代表格だ(PIXTA)