孫文と香港と日本

歴史

吉冨 拓人 【Profile】

2019年初夏、逃亡犯条例改正に問題に端を発した抗議活動が盛んになり始めた香港で、孫文ゆかりの地を巡った。「革命の父」とも呼ばれる孫文が、今の時代に生きていたら、何を考えたであろうか。

日本との交流を今に伝える孫文記念館

次の目的地は、香港大学からバスで15分ほどの孫文記念館。「ミッドレベル」と呼ばれる山の中腹の坂道の多い場所にあり、4階建ての昔ながらの立派な建物は人目を引く。入り口の脇で、若き日の孫文がさっそうとした立ち姿で来訪者を迎える。記念館では、写真や映像などにより孫文の生涯を知ることができる。入り口からすぐの通路に、孫文の日本への亡命中だった1915年、宋慶齢と結婚した当時の写真が展示されている。披露宴が開催されたのは支援者の梅屋庄吉の屋敷だった。

孫文記念館の外観(筆者撮影)
孫文記念館の外観(筆者撮影)

孫文が庄吉と出会ったのは1895年のこと。孫文はその前年の94年にハワイで革命団体「興中会」を組織し、香港で武装蜂起の準備を進めていた。一方の庄吉は当時、香港で写真館を営んでいた。庄吉のひ孫である小坂文乃が著した『革命をプロデュースした日本人』(講談社)によれば、庄吉は孫文との2回目の面会で彼の志に心を動かされ、「君は兵を挙げたまえ。われは財を挙げて支援す」との「盟約」を交わした。庄吉は、その後日本で日活の創業メンバーの1人となり映画興行で財を成し、生涯を通じて孫文を資金面で援助し続けた。

孫文は数度の亡命や長期滞在を含め、生涯のうちに何度も日本を訪れて、多くの日本人と交流した。

梅屋庄吉と並んで孫文と関係の深かった日本人として知られているのは、宮崎滔天(とうてん)であろう。記念館に陳列された集合写真では、ひげ面の大男が孫文の背後に立っている。革命家であり、さすらいの浪曲師でもあった滔天は、1897年に孫文と出会い、犬養毅や桂太郎らの政治家に引き合わせたほか、政治結社「玄洋社」総帥の頭山満、その弟子で「黒龍会」主幹の内田良平ら国家主義者らとの橋渡し役にもなった。後の辛亥革命の母体となった「中国革命同盟会」は、宮崎や内田らの尽力のもと日本で結成された。

また、革命の前線に身を投じた日本人もいた。山田良政は、1900年の恵州蜂起に孫文らとともに参加し命を落とした。良政は日本人としてただ一人、台湾にある忠烈祠に祀られている。

 記念館の孫文像(筆者撮影)
記念館の孫文像(筆者撮影)

孫文は、欧米列強の侵略をアジアの団結によって食い止めようと考え、日本との連携を模索した。1924年、孫文は神戸で「大アジア主義」の講演を行い、その壮大なビジョンを示し、多くの日本人の心をとらえた。しかし、日中は手を携えることはなかった。孫文、蒋介石らはソ連や米国の手を借りて生き残りを図る一方、日本は「大東亜共栄圏」のスローガンの下、対中戦線を拡大した。

孫文は1925年に58歳の若さで、「革命未だ成らず」と遺言に書き残して、この世を去った。「西洋の覇道に対するアジアの王道の優越性を強く唱え続けることが肝要である」と大アジア主義への思いも最後まで持ち続けた。

1929年6月に南京で営まれた国葬には、日本から特派使節として犬養毅が派遣され、梅屋庄吉、頭山満、宮崎滔天の未亡人ら80名余りが招待された。梅屋庄吉は日本人としてただ一人、宋慶齢らと共に孫文のひつぎを担いで中山陵の階段を上った。

日清戦争から第二次世界大戦に向かう複雑な国際情勢の下、多くの日本人が孫文と関わった。利害関係が交錯する中で、すれ違いや裏切りも時にはあっただろう。しかし、孫文のビジョンやリーダーシップに共鳴した日本人が、彼を支え、行動を共にしたのである。

次ページ: 革命のアジトと同じ場所にある同じ名のレストラン

この記事につけられたキーワード

中国 台湾 香港 孫文

吉冨 拓人YOSHITOMI Takuto経歴・執筆一覧を見る

横浜国立大学大学院国際開発研究科(博士課程)修了。博士。専門は中華圏の政治・経済。在中国日本大使館で専門調査員、外務省で専門分析員等を務める一方、名古屋市立大学、二松学舎大学、横浜国立大学などで非常勤講師。2018年から在香港日本総領事館専門調査員として、香港在住。

このシリーズの他の記事