木村泰治――日台をつないだある実業家の軌跡

文化 歴史

台湾台北市北部に位置する林森北路一帯は、戦後、長らく台北を代表する歓楽街だった。それらの側面は過去のものになり、現在はホテルやレストランが集まり、旅行者の姿を多く見かける。このエリアの開発と東京にもつながる住宅地の造成秘話について紹介する。

関東大震災と上北沢

木村泰治が大正町を手掛けてから約10年の歳月が過ぎた1923(大正12)年9月1日、首都圏を関東大震災が襲った。直後に組閣された第二次山本権兵衛内閣は、27日に帝都復興院を設けた。総裁にはかつて台湾総督府民政長官を務めた後藤新平が内務大臣を兼務する形で着任した。

この時、木村は旧知の仲とも言える後藤新平から連絡を受けた。そして、台湾で得た富を手にして東京へ赴いた。自身が率いる第一土地建物会社により、台北市大正町に続く新しい住宅地の造成を決意したのである。木村が選んだのは、上北沢であった。まもなく一帯の整備が始まったが、関東大震災後の復興計画と重なっていたこともあり、上北沢の住宅街には様々な試みが盛り込まれていた。

中でも、上北沢の道路配置に注目してみたい。大正町と同様、地図を見ると、どちらも主軸となる道路を設け、両側に路地を配列している。つまり、「肋骨(ろっこつ)」のように並んだ道路配置が見て取れる。

格子状の区画は、日本統治下の台湾ではよく見られる。亜熱帯に多い疫病のまん延を防ぎ、風通しと日当たりを考慮したためだが、大通りが南北を結び、そこに路地が直角に交わる大正町に対し、上北沢は若干、様相が異なる。こちらは中心線となる大通りが西に傾き、路地も斜めに交差しているのである。

同時に、上北沢は資金が台湾から持ち込まれていることにも注目したい。つまり、大正町をはじめとする開発事業で得た利益が、首都・東京に投入されたのである。

日本が台湾に設けた建造物やインフラ基盤はよく知られるが、戦前に台湾の企業が日本本土に投資し、造成した住宅街というのは他に例を見ない。そういった部分から見つめてみると、また異なった表情の上北沢が浮かび上がる。

なお、木村泰治と台湾土地建物会社について研究している南華大学の陳正哲教授は、上北沢そのものを歴史ある文化遺産として捉え、後代に伝えていくことの意義を説く。そして、「生活遺産」という表現を用い、日台ともに先人たちが遺したものを見つめ、記録していくべきではないかと、語っている。

昭和6年頃の大正町。その経験は上北沢の桜並木街区にもつながっている(『古写真が語る台湾日本統治時代の50年』より)
昭和6年頃の大正町。その経験は上北沢の桜並木街区にもつながっている(『古写真が語る台湾日本統治時代の50年』より)

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