木村泰治――日台をつないだある実業家の軌跡

文化 歴史

台湾台北市北部に位置する林森北路一帯は、戦後、長らく台北を代表する歓楽街だった。それらの側面は過去のものになり、現在はホテルやレストランが集まり、旅行者の姿を多く見かける。このエリアの開発と東京にもつながる住宅地の造成秘話について紹介する。

敗戦とともに消滅した大正町と今

敗戦によって日本人が台湾を離れ、中華民国政府の統治下に入ると、「大正町」の呼称は消滅した。日本人が所有した財産は、公私を問わず、敵性遺産として中華民国国民党政府に接収された。大正町の住宅も中国から渡ってきた官吏などの住居としてあてがわれた。

その後、林森北路界隈は歓楽街としての名が広がっていく。とりわけ日本人ビジネスマンが集う場所として知られていった。これによって、地域を取り巻く様相も変化した。現在、木造平屋の家屋は大半が建て替えられ、ほとんど残っていない。

しかし、日本統治時代に付けられていた路地の名称は健在である。これはあくまでも通称であり、正式な地名ではないが、現在も「五條通(旧・五条通り)」や「七條通(同・七条通り)」など、日本統治時代の名称が中国語表記・中国語読みで用いられている。

三板橋共同墓地(現・林森公園)には第7代台湾総督・明石元二郎の墓地があった。現在も鳥居が残されている(筆者撮影)
三板橋共同墓地(現・林森公園)には第7代台湾総督・明石元二郎の墓地があった。現在も鳥居が残されている(筆者撮影)

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