木村泰治――日台をつないだある実業家の軌跡

文化 歴史

台湾台北市北部に位置する林森北路一帯は、戦後、長らく台北を代表する歓楽街だった。それらの側面は過去のものになり、現在はホテルやレストランが集まり、旅行者の姿を多く見かける。このエリアの開発と東京にもつながる住宅地の造成秘話について紹介する。

新領土・台湾に永住する意思を持たせる

筆者は取材の中で、木村の自叙伝『地天老人一代記』という書籍を入手した。ここには「町づくりの時代」という項目があり、大正町界隈の開発秘話が記されている。

1911(明治44)年8月26日、台湾は未曽有の暴風雨に見舞われ、南部に甚大な被害が出た。島の南北を結ぶ縦貫鉄道が寸断されたほか、台北でも川が氾濫し、街が水没した。

台湾総督府は復旧に尽力したが、そこに木村が率いた台湾土地建物会社が関わっていた。そして、これが、大正町が整備される契機となった。

当時、日本人居住区は整備されておらず、内地人は台湾の人たちと雑居する形で生活していた。当然ながら、衛生観念や生活習慣の相違があり、多くの場合、劣悪な環境下にあった。実際、マラリアをはじめとする疫病がまん延しており、人々は亜熱帯特有の病に常にさらされていた。「新天地」とは名ばかりのものだった。

また、当時は治安も安定せず、圧倒的少数派である日本本土出身者は、等しく不安を抱えていた。そのため、台湾で一旗揚げたらすぐに郷里に戻ろうと考える者が大半を占め、台湾に定住する意思を持つ者は皆無に近かった。 

こういった状況を木村は憂いた。そして、台湾の地に人々が永住したくなるような住宅地を整備しようと決意する。1912(大正元)年、台北市北東部の空き地を10万坪購入した。

木村の行動は早かった。幸い、台湾総督府や財界の支援も受けられ、新しい住宅地の整備に取り掛かった。特に総督府民政長官を務め、離任後も台湾の政財界に大きな影響力を持っていた後藤新平は、もともと木村に近い考えを持っていたと言われている。後藤の在任中、新聞記者だった木村は自らの思いを何度となく伝え、その必要性を説いたと言う。

日本統治時代の地図。風格と美しさ、そして利便性が考慮された家並みは広く注目された(赤星光雄氏提供)
日本統治時代の地図。風格と美しさ、そして利便性が考慮された家並みは広く注目された(赤星光雄氏提供)

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