木村泰治――日台をつないだある実業家の軌跡

文化 歴史

片倉 佳史 【Profile】

台湾台北市北部に位置する林森北路一帯は、戦後、長らく台北を代表する歓楽街だった。それらの側面は過去のものになり、現在はホテルやレストランが集まり、旅行者の姿を多く見かける。このエリアの開発と東京にもつながる住宅地の造成秘話について紹介する。

知られざる戦前の高級住宅街

台北市の地図を開くと、数多くの公園が確認できる。現在、「林森公園」と呼ばれている緑地もその一つ。日本統治時代、ここには三橋町共同墓地が設けられていた。一帯は「三板橋(さんばんきょう)」の名で呼ばれ、第7代台湾総督・明石元二郎や第3代台湾総督・乃木希典(まれすけ)の母、壽子(ひさこ)の墓地があった。

今回取り上げるのは、この緑地の南側である。終戦まで「大正町」と呼ばれ、当時、「内地人」と呼ばれていた日本本土出身者とその子孫たちが暮らし、高級住宅街として名をはせた場所である。

開発を手掛けたのは、木村泰治(きむらたいじ)という人物だった。秋田県大館市の出身で、文豪・二葉亭四迷の勧めで新聞記者となり、『台湾日報』の主筆だった内藤湖南のつてを頼り、領台間もない1897(明治30)年の暮れに台湾へと渡っている。

木村泰治は記者時代は児玉源太郎や後藤新平、新渡戸稲造と親交があり、実業界に転じてからは、台湾各地の都市計画に関わりをもった。(福島岳温泉木村家提供)
木村泰治は記者時代は児玉源太郎や後藤新平、新渡戸稲造と親交があり、実業界に転じてからは、台湾各地の都市計画に関わりをもった。(福島岳温泉木村家提供)

その後、『台湾日日新報』の編集長となり、幅広く取材活動を行なったが、後に「台湾土地建物会社」の設立に携わり、実業界に入った。同社は基隆(キールン)港や高雄新市街の造成など、数々の事業を手掛けたが、その多くが木村の手によるものだったとされる。1937(昭和12)年には台北商工会議所の設立に奔走し、会頭にも就任している。

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台湾在住作家、武蔵野大学客員教授。1969年神奈川県生まれ。早稲田大学教育学部在学中に初めて台湾を旅行する。大学卒業後は福武書店(現ベネッセ)に就職。1997年より本格的に台湾で生活。以来、台湾の文化や日本との関わりについての執筆や写真撮影を続けている。分野は、地理、歴史、言語、交通、温泉、トレンドなど多岐にわたるが、特に日本時代の遺構や鉄道への造詣が深い。主な著書に、『古写真が語る 台湾 日本統治時代の50年 1895―1945』、『台湾に生きている「日本」』(祥伝社)、『台湾に残る日本鉄道遺産―今も息づく日本統治時代の遺構』(交通新聞社)、『台北・歴史建築探訪~日本が遺した建築遺産を歩く』(ウェッジ)、『台湾旅人地図帳』(ウェッジ)、『台湾のトリセツ~地図で読み解く初耳秘話』(昭文社)等。オフィシャルサイト:台湾特捜百貨店~片倉佳史の台湾体験

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