
私の台湾研究人生:2つの衝撃――林義雄「滅門」事件と葉石濤の語り
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葉石濤先生の座談——「語られ始めた現代史の沃野」
もう一つ、1980年の台湾旅行で忘れられないことがある。初めて葉石濤さんにお会いしそのお話を聞いたことである。高雄滞在中のある日の夕方、これも近藤さん夫妻の案内で、高雄市郊外の左営にある葉さんのお宅を訪ねた。葉さんは、1977~78年のいわゆる「郷土文学論戦」において、「台湾文学論」で論陣を張った文学者としてすでに高名であったが、当時はまだ小学校の先生もしていた。文字通り「葉先生」だったのである。
薄暗い入口から階段を上った2階が先生の客間だった。4人が日本語で話しているうちに、1人の青年が訪ねて来た。葉さんの客間は文学青年のサロンにもなっていたのである。そこで葉さんは言葉を中国語に切り替え「歴史の話をしよう」と言って、また語り出した。
実はこの時のことを私は数年後に文章として発表している。私の最初で最後の文学作品解説である。1983年頃だったと思う。前回で触れた松永正義さんの音頭取りで、何人かの友人が集まって、翻訳で現代台湾文学作品のアンソロジーを出そうということになり、私も一篇を担当して四苦八苦して翻訳した。その上さらに蛮勇を発揮して『台湾現代小説選』Ⅰ、Ⅱ、Ⅲ(1984~85年、研文出版刊)のうち、第Ⅲ集『三本足の馬』の解説を書いたのである。松永さんは、残り2篇の解説を書き、日本初の現代台湾文学アンソロジーの編訳者として、台湾文学研究者デビューを見事に飾ったのであった。
私の「解説」は「語られ始めた現代史の沃野」と題している。題名からして文学そのものを語り得たものではないことがすぐに知れるが、私自身の1980年の旅の経験をよく伝えている。少し長くなるが二三抜き書きする。なお『小説選』の刊行は1985年でまだ長期戒厳令施行中であった。文中Y氏としてあるのが葉さんである。
「それから一時間ほどだったか、それほど標準的とはいえないが、歯切れのいい北京語で、Y氏は大いに語ってくれた。話は、氏の青年期の戦中の時代から、戦後の台湾を襲った動乱に及び、そしてどうしても、あの『二・二八事件』とその周辺を往き来することになった。」
「氏の語り口には、臨場感を持った衝迫力があった。私は、その時に一種の心理的衝撃を受けたのだと思う。…(中略)…その時私は、Y氏の話を聞きながら、台湾の現代史において未だ公に語られざることの大きさ、深さを今さらながらに感じて呆然たらざるを得なかったのである。」
今から1980年の旅を思い起こすと、「呆然たらざるを得なかった」のは、葉さんの座談の衝撃ばかりではなかったのかもしれない。民生西路の洋食屋「波麗路」の衝撃、林義雄議員一家へのテロの衝撃もまた重なりあっていたのだろう。「語られ初めた現代史の沃野」という私の「解説」の表題は、もちろん同時期の台湾文学が、戦後台湾の現実を語り始めていたということを指している。だが、それは同時に、この時の私自身のことも語っていたのかもしれない。私がその時、台湾現代史、というよりは目の前に展開し始めた台湾の政治変動の「沃野」に引きつけられ始めているということを告白していたのである。
バナー写真=葉石濤先生(中央)、林瑞明氏(左)、筆者(右):1982年夏、高雄市内喫茶店にて(筆者提供)