私の台湾研究人生:2つの衝撃――林義雄「滅門」事件と葉石濤の語り
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高雄で知った林義雄省議員一家殺害事件の発生
台北市民生西路のレストラン「波麗路」で、「美麗島事件直後」を実感したその後、これまた台湾大学に留学中の近藤正巳さん夫妻に連れられて高雄に行った。奥さんのお兄さんが高雄に住んでビジネスをしているので、そこに泊めていただくことになっていた。旅日記は付けていなかったが、日付はすぐ分かる。2月28日である。
高雄に着いて、奥さんのお兄さんの家に行き、そこから車で市内をあちこち案内してもらってお宅に戻った。客間のテーブルに置いてあった夕刊の第一面に気が付いたのは確か近藤さんであった。
後に台湾の言い方で「林義雄省議員滅門事件」(省議員一家殺人事件)と呼ばれるようになるテロ事件の報道であった。
林義雄台湾省議会議員は、美麗島事件で軍事法廷にかけられることになっていた8名の「党外(国民党に属さないグループ)」主要リーダーの一人であった。この日の午後、何者かが台北市信義路の林氏自宅に侵入し、留守家族を襲ったのである。夫人の方素敏さんは監獄に夫を訪ねていて難を免れたが、林氏の母親と、3人娘のうち娘2人が殺害され、娘1人が重傷を負った。
体制に歯向かった父親はすでに逮捕され、体制はまさに彼を罰しようといていた。それ以上に彼が受けるべき罰があるのか。何故家族が、しかもいかなる政治活動にも関わりそうもない、また暴力に対して無力である老母と幼子を殺りくするのか。その非道さは、台湾の政治的関心がそれほど高くはないと推測される人々の庶民的道議感覚にも強く抵触するものであったのではないか。
林氏宅は政治犯の自宅として、戒厳令下において当然政治警察の監視下にあったはずである。そこで白昼堂々と殺人が行われた。最高指導者蒋経国の指示によるものではなかったにしても、体制内の何らかの指示があって行われたことは明らかではないのか。政治的関心のある人々にとってみれば、こうした体制への不信感が生じたか、増幅したであろう。この事件は、「党外」リーダーを断罪しようとしていた体制の正統性を明らかに傷つけるものであった。
「慟」一文字の表紙裏
私はこの旅行中に台湾の「党外」の主張を知るために、当時唯一発行されていた『八十年代』系列雑誌(つまり、康寧祥系。同誌が発禁になると『亜洲人』月刊、その次は『暖流』月刊になった)の購読手続をしていた。
帰国後しばらくして届いた『亜洲人』はこの事件の特集号だったが、雑誌の表紙をめくると表紙裏は一面黒字の中に「慟」の文字だけ白抜きで記されるという衝撃的な誌面となっていた。この旅で知り合いになった呉密察氏にも帰国後お礼の手紙や研究上の相談など何通か手紙を出したが、半年以上返事が無かった。「あの事件ですごく落ち込んでしまって、返事を書く気にどうしてもならなかった」とは後の述懐である。
ところで、林氏宅は、私が泊めていただいていた近藤さん夫妻のマンションから南に一ブロック下がっただけのところにあった。台北に戻ってからある朝恐る恐るその前を通ってみた。通りはまるで何事も無かったかのようで、近所の小学校から子どもの歌声が響いてきただけだった。
それからさらに十数年後、消費者団体を基盤とする地方政党から出て相模原市議会議員をしていた家内が、その経験を話してもらいたいと、台北の消費者団体から筆者の台湾の友人経由で頼まれて、一場のささやかな講演をすることになったので私も付き添った。会場は「義光教会」、住所は台北市信義路三段31巷16號、まさにかつての林義雄氏宅を教会に改めた場所であった。
葉石濤先生の座談——「語られ始めた現代史の沃野」
もう一つ、1980年の台湾旅行で忘れられないことがある。初めて葉石濤さんにお会いしそのお話を聞いたことである。高雄滞在中のある日の夕方、これも近藤さん夫妻の案内で、高雄市郊外の左営にある葉さんのお宅を訪ねた。葉さんは、1977~78年のいわゆる「郷土文学論戦」において、「台湾文学論」で論陣を張った文学者としてすでに高名であったが、当時はまだ小学校の先生もしていた。文字通り「葉先生」だったのである。
薄暗い入口から階段を上った2階が先生の客間だった。4人が日本語で話しているうちに、1人の青年が訪ねて来た。葉さんの客間は文学青年のサロンにもなっていたのである。そこで葉さんは言葉を中国語に切り替え「歴史の話をしよう」と言って、また語り出した。
実はこの時のことを私は数年後に文章として発表している。私の最初で最後の文学作品解説である。1983年頃だったと思う。前回で触れた松永正義さんの音頭取りで、何人かの友人が集まって、翻訳で現代台湾文学作品のアンソロジーを出そうということになり、私も一篇を担当して四苦八苦して翻訳した。その上さらに蛮勇を発揮して『台湾現代小説選』Ⅰ、Ⅱ、Ⅲ(1984~85年、研文出版刊)のうち、第Ⅲ集『三本足の馬』の解説を書いたのである。松永さんは、残り2篇の解説を書き、日本初の現代台湾文学アンソロジーの編訳者として、台湾文学研究者デビューを見事に飾ったのであった。
私の「解説」は「語られ始めた現代史の沃野」と題している。題名からして文学そのものを語り得たものではないことがすぐに知れるが、私自身の1980年の旅の経験をよく伝えている。少し長くなるが二三抜き書きする。なお『小説選』の刊行は1985年でまだ長期戒厳令施行中であった。文中Y氏としてあるのが葉さんである。
「それから一時間ほどだったか、それほど標準的とはいえないが、歯切れのいい北京語で、Y氏は大いに語ってくれた。話は、氏の青年期の戦中の時代から、戦後の台湾を襲った動乱に及び、そしてどうしても、あの『二・二八事件』とその周辺を往き来することになった。」
「氏の語り口には、臨場感を持った衝迫力があった。私は、その時に一種の心理的衝撃を受けたのだと思う。…(中略)…その時私は、Y氏の話を聞きながら、台湾の現代史において未だ公に語られざることの大きさ、深さを今さらながらに感じて呆然たらざるを得なかったのである。」
今から1980年の旅を思い起こすと、「呆然たらざるを得なかった」のは、葉さんの座談の衝撃ばかりではなかったのかもしれない。民生西路の洋食屋「波麗路」の衝撃、林義雄議員一家へのテロの衝撃もまた重なりあっていたのだろう。「語られ初めた現代史の沃野」という私の「解説」の表題は、もちろん同時期の台湾文学が、戦後台湾の現実を語り始めていたということを指している。だが、それは同時に、この時の私自身のことも語っていたのかもしれない。私がその時、台湾現代史、というよりは目の前に展開し始めた台湾の政治変動の「沃野」に引きつけられ始めているということを告白していたのである。
バナー写真=葉石濤先生(中央)、林瑞明氏(左)、筆者(右):1982年夏、高雄市内喫茶店にて(筆者提供)