日本の山城:山岳部の地形を利用して築かれた土の防御施設

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中井 均 【Profile】

戦国時代において天守閣や石垣を備えた城が築かれた期間は短く、その大半は周囲の地形を利用した山城だった。不便な場所にあったため保存状態が良く、当時の遺構がそのままに残されている。

石垣や居住施設を備えた山城も登場

16世紀になると、長野県の松本周辺、岐阜県、滋賀県、兵庫県西部から岡山県東部、九州北部などで石垣によって築かれる山城も萌芽(ほうが)する。しかしそれらの石垣は城内の一部にのみ用いられる程度で、高さも4メートルに満たない。ところが16世紀半ばには、滋賀県の観音寺城で城域全体が石垣によって築かれ、なかには5メートルを超える高石垣も認められる。そこには長さ1メートルを超える石材が多く使われている。この観音寺城の石垣には金剛輪寺などの寺社の技術が用いられたとみられる。

高石垣(滋賀県の観音寺城跡)=筆者提供
高石垣(滋賀県の観音寺城跡)=筆者提供

一方、戦国大名で石垣を積極的に導入したのが三好長慶である。彼の改修した大阪府の芥川山城では谷筋(尾根と尾根の間)に巨大な石材を用いた石垣が築かれているし、同府の飯盛城ではほぼ城域全体が石垣によって築かれている。天下統一を意識した信長と長慶がその居城に石垣を導入した点は興味深い。

巨大な石材を用いた石垣(大阪府の飯盛城跡)=筆者提供
巨大な石材を用いた石垣(大阪府の飯盛城跡)=筆者提供

三好長慶の居城では山麓部に居館想定地はなく、山上に居住空間も備えていたようである。芥川山城は発掘調査の結果、山頂の本丸から居住施設の礎石が検出されており、これを立証している。戦国時代後半になると、大名クラスの居城では詰城と居館という二元的構造から山城にも居住空間が備えられるになる。家族を山城に住まわせるようになったようである。滋賀県の小谷城や観音寺城では発掘調査によって大広間に相当する巨大な建物の礎石が検出されている。

滋賀県の小谷城跡。発掘調査によって居住施設の礎石が検出され、山城に家族を住まわせるようになったことが分かる=筆者提供
滋賀県の小谷城跡。発掘調査によって居住施設の礎石が検出され、山城に家族を住まわせるようになったことが分かる=筆者提供

山城跡を訪ねても何も残されていないと言われることが多いが、そこには曲輪や土塁、堀切などの防御施設の跡が今でも見事に残されている。山中でそうした遺構を藪漕(やぶこ)ぎしながら訪ね歩き、戦国時代を体感する。これほど心踊ることもない。城跡に立ち、何が見えるかを実際に確かめてほしい。支配した村落や領域、街道、河川、港湾、そして敵の山城などが望めるはずだ。その見えるものこそが、そこに山城が構えられていた紛れもない史実を物語ってくれる。

バナー写真=堀障子の跡が残る静岡県の山中城跡(PIXTA)

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中井 均NAKAI Hitoshi 経歴・執筆一覧を見る

滋賀県立大学人間文化学部教授。専門は日本考古学。主な研究対象は中・近世城郭や近世大名墓。1955年大阪府生まれ。龍谷大学文学部史学科卒業。長浜城歴史博物館館長などを経て、2011年に滋賀県立大学人間文化学部准教授。13年より現職。主な著書に『城館調査の手引き』(山川出版社、2016年)、『カラー徹底図解 日本の城』(新星出版、2009年)、『近江の城:城が語る湖国の戦国史』(サンライズ出版、1997年)など。

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