日本の山城:山岳部の地形を利用して築かれた土の防御施設

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中井 均 【Profile】

戦国時代において天守閣や石垣を備えた城が築かれた期間は短く、その大半は周囲の地形を利用した山城だった。不便な場所にあったため保存状態が良く、当時の遺構がそのままに残されている。

防御機能を強化するさまざまな工夫

戦国時代後半になると、こうした山城の基本構造に応用編としての施設が加味され、さらに防御機能が強固なものへとなっていく。土塁は曲輪を取り囲むだけのものではなく、塁線に屈曲が設けられるようになる。これを「折(おり)」と呼んでいる。土塁を屈曲させることにより、それまで正面から来る敵にしか対応できなかったものが、屈曲した部分から敵の側面への攻撃が可能となった。側射は横矢と呼ばれ、城の出入り口となる「虎口(こぐち)」から侵入してくる敵に横から矢が射られる場合が多い。

折(香川県の勝賀山城跡)=筆者提供
折(香川県の勝賀山城跡)=筆者提供

その虎口にもさまざまな構造が出現するようになる。城にとって出入り口は必要な施設であるが、敵の侵入口ともなる。そこで簡単に入れない工夫が施されるようになった。最初の虎口は「平虎口」というもので、単純に土塁を開口させ、直進して曲輪の中に入ることができるものであった。そこで考案されたのが「喰(くい)違いの虎口」で、虎口両側の土塁をずらせて配置し直進を防ごうとした。

喰(くい)違いの虎口(岐阜県の松尾山城跡))=筆者提供
喰(くい)違いの虎口(岐阜県の松尾山城跡))=筆者提供

さらに進化すると、虎口の城内側に土塁で区切った方形の空間を設け、入ってきた敵をそこに閉じ込めて三方から弓矢を放って攻撃する「枡(ます)形虎口」が誕生する。この枡形虎口はその後の近世城郭にも引き継がれ、現在多くの城跡で見ることができる。

一方、虎口の前面に防御空間を設ける施設として、半円形の横堀を巡らせた小規模な曲輪を構え、その両サイドに土橋を設ける「丸馬出(まるうまだし)」が出現する。武田氏や徳川氏が用いるもので、静岡県の諏訪原城では外堀虎口の前面はすべてこの丸馬出が構えられていた。この小曲輪が半円形ではなく、方形になるものを「角馬出(かくうまだし)」と呼び、北条氏や関東の城に多用されている。

丸馬出(静岡県の諏訪原城)=筆者提供
丸馬出(静岡県の諏訪原城跡)=筆者提供

堀の進化系として注目されるのは「畝状竪堀群(うねじょうたてぼりぐん)」と呼ばれるもので、切岸部に連続して竪堀を設ける防御施設である。敵の斜面移動を防ぐ目的で設けられたものと考えられる。福岡県の長野城では城の周囲に200本近い畝状竪堀群が張り巡らされており、その姿は圧巻である。

畝状竪堀群(福岡県の長野城跡)=筆者提供
畝状竪堀群(福岡県の長野城跡)=筆者提供

また、横堀の底に土手を設けて敵の堀内移動を封鎖する「堀内障壁」も出現する。堀内に畝のように構えられるものを「畝堀(うねぼり)」、障子の桟(さん)のように井桁(いげた)状に構えられるものを「堀障子(ほりしょうじ)」と呼び、北条氏の城に多用されている。1587(天正15)年頃、豊臣秀吉軍に対して築かれた静岡県の山中城では横堀内に畝堀、堀障子が縦横無尽に構えられている。

堀障子(静岡県の山中城跡)=筆者提供
堀障子(静岡県の山中城跡)=筆者提供

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中井 均NAKAI Hitoshi 経歴・執筆一覧を見る

滋賀県立大学人間文化学部教授。専門は日本考古学。主な研究対象は中・近世城郭や近世大名墓。1955年大阪府生まれ。龍谷大学文学部史学科卒業。長浜城歴史博物館館長などを経て、2011年に滋賀県立大学人間文化学部准教授。13年より現職。主な著書に『城館調査の手引き』(山川出版社、2016年)、『カラー徹底図解 日本の城』(新星出版、2009年)、『近江の城:城が語る湖国の戦国史』(サンライズ出版、1997年)など。

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