日本の山城:山岳部の地形を利用して築かれた土の防御施設

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戦国時代において天守閣や石垣を備えた城が築かれた期間は短く、その大半は周囲の地形を利用した山城だった。不便な場所にあったため保存状態が良く、当時の遺構がそのままに残されている。

日本列島にはおおよそ3~4万もの城館跡が存在している。それらは14世紀前半から17世紀前半に築かれたものである。約300年間でこれほどの城館が築かれたことは世界史的に見ても異常な数で、日本の戦国時代は大築城時代であった。

日本の「お城」というと白亜の天守閣に高い石垣、満々と水をたたえた堀を多くの人はイメージするが、こうした形態は織田信長が1576(天正4) 年に安土城を築いて以後のものである。戦国時代の城郭は現代人がイメージする姿とはまったく異なるものであり、大半は山岳部の地形を利用して築かれた防御施設だった。

山を切り盛りして作られた土木施設

その形態は戦いに備えた最終地点の詰城(つめしろ)である「山城(やましろ)」と、普段生活する山麓の「居館(きょかん)」の二元的構造となる。つまり山城には住まなかったのである。越前の戦国大名朝倉氏の居館として有名な福井県の一乗谷朝倉氏遺跡は山麓の居館であり、その背後の城山の山頂に巨大な山城が構えられていた事実はあまり知られていない。

福井県の一乗谷朝倉氏遺跡=筆者提供
福井県の一乗谷朝倉氏遺跡=筆者提供

詰城である山城は、山を切り盛りして築かれている。山を削って「曲輪(くるわ)」と呼ばれる平たん面を造成し、尾根筋は巨大な包丁で切断したような「堀切(ほりきり)」を構え、曲輪造成や堀切で削り取った土で「土塁(どるい)」を築いている。まさに城という文字の通り、土から成るものであった。戦国時代の山城は建築施設ではなく、土木施設だったのである。

そうした山城の防御施設についてみておこう。曲輪は郭とも書き、兵の駐屯地として設けられた。そこには小規模な掘立柱建物(ほったてばしらたてもの)(※1)が2~3棟建つのみである。この曲輪の周囲には土塁と呼ばれる土の壁が巡らされる。曲輪の先端部や隅部でこの土塁が幅広くなっているものはその上に櫓(やぐら)が構えられていた。もちろん櫓も近世城郭のように分厚い壁があって瓦がふかれた重層のものではなく、四本柱を組んだ「井楼櫓(せいろうやぐら)」と呼ばれる簡単なものであった。

曲輪(滋賀県の上平寺城跡)=筆者提供
曲輪(滋賀県の上平寺城跡)=筆者提供

堀切(地を掘って切り通した堀)は丘陵の先端に選地する山城の場合、背後の尾根筋からの攻撃を遮断するために設けられている。遮断線としての防御施設であり、単純に1本設ける場合が多いが、二重、三重、四重と多重に掘り切る場合もある。

堀切(大阪府の飯盛城跡)=筆者提供
堀切(大阪府の飯盛城跡)=筆者提供

もう一つ、戦国時代の山城の構造で見落としてはならない防御施設に「切岸(きりぎし)」がある。曲輪周囲の斜面地は自然の傾斜面ではなく、人工的に急斜面に削り込んだもので、これを切岸と呼んでいる。いかに敵を登らせなくするかを考えた防御施設である山城にあって、この切岸こそが曲輪、堀切、土塁よりも重要な施設だったのである。鹿児島県の知覧城や志布志城ではシラス台地をほぼ垂直に削り込んで切岸を造っている。その高さは20メートルを超え、とても登ることはできない。

切岸(鹿児島県の志布志城跡)=筆者提供
切岸(鹿児島県の志布志城跡)=筆者提供

(※1) ^ 礎石を置かず、柱を直接地面に埋めて建てた建物。

防御機能を強化するさまざまな工夫

戦国時代後半になると、こうした山城の基本構造に応用編としての施設が加味され、さらに防御機能が強固なものへとなっていく。土塁は曲輪を取り囲むだけのものではなく、塁線に屈曲が設けられるようになる。これを「折(おり)」と呼んでいる。土塁を屈曲させることにより、それまで正面から来る敵にしか対応できなかったものが、屈曲した部分から敵の側面への攻撃が可能となった。側射は横矢と呼ばれ、城の出入り口となる「虎口(こぐち)」から侵入してくる敵に横から矢が射られる場合が多い。

折(香川県の勝賀山城跡)=筆者提供
折(香川県の勝賀山城跡)=筆者提供

その虎口にもさまざまな構造が出現するようになる。城にとって出入り口は必要な施設であるが、敵の侵入口ともなる。そこで簡単に入れない工夫が施されるようになった。最初の虎口は「平虎口」というもので、単純に土塁を開口させ、直進して曲輪の中に入ることができるものであった。そこで考案されたのが「喰(くい)違いの虎口」で、虎口両側の土塁をずらせて配置し直進を防ごうとした。

喰(くい)違いの虎口(岐阜県の松尾山城跡))=筆者提供
喰(くい)違いの虎口(岐阜県の松尾山城跡))=筆者提供

さらに進化すると、虎口の城内側に土塁で区切った方形の空間を設け、入ってきた敵をそこに閉じ込めて三方から弓矢を放って攻撃する「枡(ます)形虎口」が誕生する。この枡形虎口はその後の近世城郭にも引き継がれ、現在多くの城跡で見ることができる。

一方、虎口の前面に防御空間を設ける施設として、半円形の横堀を巡らせた小規模な曲輪を構え、その両サイドに土橋を設ける「丸馬出(まるうまだし)」が出現する。武田氏や徳川氏が用いるもので、静岡県の諏訪原城では外堀虎口の前面はすべてこの丸馬出が構えられていた。この小曲輪が半円形ではなく、方形になるものを「角馬出(かくうまだし)」と呼び、北条氏や関東の城に多用されている。

丸馬出(静岡県の諏訪原城)=筆者提供
丸馬出(静岡県の諏訪原城跡)=筆者提供

堀の進化系として注目されるのは「畝状竪堀群(うねじょうたてぼりぐん)」と呼ばれるもので、切岸部に連続して竪堀を設ける防御施設である。敵の斜面移動を防ぐ目的で設けられたものと考えられる。福岡県の長野城では城の周囲に200本近い畝状竪堀群が張り巡らされており、その姿は圧巻である。

畝状竪堀群(福岡県の長野城跡)=筆者提供
畝状竪堀群(福岡県の長野城跡)=筆者提供

また、横堀の底に土手を設けて敵の堀内移動を封鎖する「堀内障壁」も出現する。堀内に畝のように構えられるものを「畝堀(うねぼり)」、障子の桟(さん)のように井桁(いげた)状に構えられるものを「堀障子(ほりしょうじ)」と呼び、北条氏の城に多用されている。1587(天正15)年頃、豊臣秀吉軍に対して築かれた静岡県の山中城では横堀内に畝堀、堀障子が縦横無尽に構えられている。

堀障子(静岡県の山中城跡)=筆者提供
堀障子(静岡県の山中城跡)=筆者提供

石垣や居住施設を備えた山城も登場

16世紀になると、長野県の松本周辺、岐阜県、滋賀県、兵庫県西部から岡山県東部、九州北部などで石垣によって築かれる山城も萌芽(ほうが)する。しかしそれらの石垣は城内の一部にのみ用いられる程度で、高さも4メートルに満たない。ところが16世紀半ばには、滋賀県の観音寺城で城域全体が石垣によって築かれ、なかには5メートルを超える高石垣も認められる。そこには長さ1メートルを超える石材が多く使われている。この観音寺城の石垣には金剛輪寺などの寺社の技術が用いられたとみられる。

高石垣(滋賀県の観音寺城跡)=筆者提供
高石垣(滋賀県の観音寺城跡)=筆者提供

一方、戦国大名で石垣を積極的に導入したのが三好長慶である。彼の改修した大阪府の芥川山城では谷筋(尾根と尾根の間)に巨大な石材を用いた石垣が築かれているし、同府の飯盛城ではほぼ城域全体が石垣によって築かれている。天下統一を意識した信長と長慶がその居城に石垣を導入した点は興味深い。

巨大な石材を用いた石垣(大阪府の飯盛城跡)=筆者提供
巨大な石材を用いた石垣(大阪府の飯盛城跡)=筆者提供

三好長慶の居城では山麓部に居館想定地はなく、山上に居住空間も備えていたようである。芥川山城は発掘調査の結果、山頂の本丸から居住施設の礎石が検出されており、これを立証している。戦国時代後半になると、大名クラスの居城では詰城と居館という二元的構造から山城にも居住空間が備えられるになる。家族を山城に住まわせるようになったようである。滋賀県の小谷城や観音寺城では発掘調査によって大広間に相当する巨大な建物の礎石が検出されている。

滋賀県の小谷城跡。発掘調査によって居住施設の礎石が検出され、山城に家族を住まわせるようになったことが分かる=筆者提供
滋賀県の小谷城跡。発掘調査によって居住施設の礎石が検出され、山城に家族を住まわせるようになったことが分かる=筆者提供

山城跡を訪ねても何も残されていないと言われることが多いが、そこには曲輪や土塁、堀切などの防御施設の跡が今でも見事に残されている。山中でそうした遺構を藪漕(やぶこ)ぎしながら訪ね歩き、戦国時代を体感する。これほど心踊ることもない。城跡に立ち、何が見えるかを実際に確かめてほしい。支配した村落や領域、街道、河川、港湾、そして敵の山城などが望めるはずだ。その見えるものこそが、そこに山城が構えられていた紛れもない史実を物語ってくれる。

バナー写真=堀障子の跡が残る静岡県の山中城跡(PIXTA)

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