日本人のバナナ好き、ルーツは台湾にあり——歴史伝える門司港の「バナちゃん節」

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栖来 ひかり 【Profile】

日本の一世帯あたりバナナ消費量は年間18キロ、本数で約120本というから、日本人のバナナ好きも相当なもの。今では、日本が輸入するバナナの85%はフィリピン産だが、日本人がバナナ好きになったきっかけでもある「台湾バナナ」の歴史をひも解いていく。

輸入の自由化で駆逐された台湾バナナ

基隆港を出発した船が、門司港で降ろしたのは人だけではない。

バナナの船積み(台農發股份有限公司)
バナナの船積み(台農發股份有限公司)

日本で高級フルーツとして憧れの存在だった台湾バナナもそのひとつだ。基隆港で青いまま船へと積み込まれ、門司港に到着すると青みを残したまま陸揚げされた。当時の青果問屋には地下にバナナを追熟させるための室(むろ)があり、下から火をたいて温度を上げてバナナを黄色くしてから、市場に流通させていた。まれに、船での輸送中に熟れて黒くなったり、傷んでしまったりしたバナナを無駄にせず、港で売り切ってしまおうと始まったのが「バナナの叩き売り」である。『バナちゃん節』で客寄せをしながら口上をはさみ、値段交渉で客に畳みかけていく独特の商いは門司港の名物となった。

バナナの積み出し(台農發股份有限公司)
バナナの積み出し(台農發股份有限公司)

1942(昭和17)年に関門鉄道トンネルが開通、戦後になって1958(昭和33)年には世界初の海底道路トンネルが関門海峡に誕生し、門司港を経由することなしに九州から本州へと渡れるようになった。それを契機に、門司港は港としての輝きを失った。また、物流や保存技術が発達したことで、バナナを港で叩き売る必要もなくなった。

筆者の子供時代、門司に暮らす祖父母の家に遊びに行くと必ずといっていいほど、バナナを出してくれた。房のままのこともあれば、皮をむいてアイスのように凍らせてあることもあった。小学校の夏休みのある日、祖父母の家の近くのデパートの福引で、ポータブル・オーディオ・プレーヤーが当たったことがある。裏に小さく「Made in Taiwan」と書かれていた。それを見た祖父が、かつて太平洋戦争のときに台湾経由でフィリピンまで船で行ったこと、台湾で積み込まれたバナナが驚くほどおいしくて、大好物になったことを話してくれた。私の人生で最初に「台湾」を意識した日だが、あのころ祖父母の家にあったバナナを私は祖父の話からてっきり台湾産と思い込んでいた。しかし、いま思えばあれは別の産地のバナナだったと思う。その頃、日本で流通する台湾バナナはすでに非常に少量で高価なものとなり、庶民がいつも買えるような商品ではなかったからだ。

それにしても、かつてはバナナといえば台湾産だったのに、ほとんど見かけなくなってしまったのはなぜなのだろうか。世界に通用する国家ブランドとしての台湾農産品を生産し、輸出強化をはかるため2016年に設立された「台農發股份有限公司」に勤め、台湾産バナナを日本へ広める営業活動を行っている内田尚毅さんに、現状と展望を伺った。

内田さんによれば、最大の理由は1963年に日本でバナナの輸入が自由化され、フィリピン産やエクアドル産のバナナに台湾産が駆逐されてしまったことにあるという。台湾産バナナには、農業規模が小さいために生産コストが高く、台風の影響で品質や生産量が不安定になるという難点があった。フィリピンでは米国の大手農業資本や日本の商社が参加して日本市場向けの農園開発が行われ、一気に日本市場を席巻してしまったのだ。

2018年に日本が輸入したバナナは金額ベースで約1000億円。このうちフィリピン産が約85%を占め、エクアドル産が10%、メキシコ産3%で、台湾産はわずか0.3%だった。

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栖来 ひかりSUMIKI Hikari経歴・執筆一覧を見る

台湾在住ライター。1976年生まれ、山口県出身。京都市立芸術大学美術学部卒。2006年より台湾在住。台湾に暮らす日日旅の如く新鮮なまなざしを持って、失われていく風景や忘れられた記憶を見つめ、掘り起こし、重層的な台湾の魅力を伝える。著書に『台湾と山口をつなぐ旅』(2017年、西日本出版社)、『時をかける台湾Y字路~記憶のワンダーランドへようこそ』(2019年、図書出版ヘウレーカ)、台日萬華鏡(2021年、玉山社)。 個人ブログ:『台北歳時記~taipei story

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