日本人は銃剣で子どもを殺していたのよ——「親日」と「反日」の狭間で

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「親日台湾」という言葉に違和感

日本に住んでいると、初対面の人から「出身はどこ?」と聞かれるときがある。それなりに日本語を巧みに操っているので、ほとんどの場合、相手は日本の地名が返ってくるのを想定している。そこで「台湾」と答えるとちょっとしたカミングアウトになるのだ。

ありがたいことに、「台湾」と答えて嫌がられることはあまりない。逆に、「私、すごく台湾が好き!」と言ってくれる人が多かった。東日本大震災以降、「台湾は親日国」という印象がかなり定着したように思われる。実際に台湾を旅行した日本人も「台湾人は日本人に優しい」と口々に言う。各分野での民間交流が進んでいることもあり、日本では今、ちょっとした「台湾ブーム」が起こっているようだ。嫌われるよりかはもちろん好かれる方がいいので、台湾出身者としてはこの状況をありがたく思っているが、一方、「親日台湾」といった言葉を耳にするたびに、少しばかり違和感を覚える。 

私自身はもちろん大の親日派と言えよう。自らの意思で日本語を学び、日本に移住し、こうして日本文学の作家として活動しているのだから、日本と日本語が好きという感情は誰にも決して否定させない。そしてふとした瞬間に周りの人間を見回すと、類は友を呼ぶということだろうか、やはり同年代では日本好きな友人が多い。ところが不思議にも、私自身は成長過程において、「台湾は日本好きが多い」という印象は特に持ったことがなかった。

世代を超えて繰り返される「残虐な日本人エピソード」

今でもひりひりするような記憶がある。小学校1年生か、2年生の時のことだった。担任の先生がクラスでこのようなことを言ったのだ。

「日本人はとても残虐な民族だよ。台湾を植民統治していた頃は、台湾人をたくさん殺した。霧社事件という事件があって、日本人の圧政に反抗した台湾人はみんな殺されたんだ」

先生の表情は非常に痛切で、口調も切実なものだった。「日本人がよくやっていた遊びがあった。皆さんよりも小さい子ども、まだ歩けない赤ちゃんをたくさん捕まえて、宙に放り上げるんだ。そして赤ちゃんが落ちてくる時に銃剣で――つまり鋭い刀をつけた銃で、刺し殺すんだ。そうやって、誰が一番上手に、一番多くの赤ちゃんを殺すことができるのか、競い合って遊んでたのよ」

どのような文脈でそういう話になったのか今となってはもはや覚えていないが、話の内容だけがどっしりと記憶の底に鎮座している。そうして幼い私にとって、「残虐で怖い人たち」というのが、日本人に対する第一印象になった。

後になって考えれば、あの先生は田舎の保守的な教育システムの一端を担う一人に過ぎなかった。年齢的に日本統治時代を実際に経験したわけでもない。つまり彼女が語る「残虐な日本人エピソード」というのも、誰かから聞いた話に過ぎないのだ。

戦後、日本は台湾の統治権を失い、代わりに台湾にやってきたのが共産党との内戦に敗れた国民党政権だった。戒厳令を敷いた国民党政権の独裁政治の下、反共思想と愛国教育は教育システムを通じて島の隅々まで浸透した。自らの政権を正当化するために、日本による統治を「占拠」と位置付け、日本人を「敵」と見なした。当時の国語教科書には蒋介石が日本の軍部に留学時の教官に逆らったエピソードが収録されていて、文中では蒋介石を「愛国青年」とたたえた。あの先生は恐らくそうした反日教育の中で、「残虐な日本人エピソード」をたたき込まれたのではないだろうか。そして今度、彼女は自分の受けた教育内容を私たちに向かって再生産しようとしたのだ。

台湾に厳然とあった「反日教育」

台湾には、反日教育が行われる時代が厳然とあった。そんな教育を真正面から受けた世代の一つ下の世代として、私もその名残を感じないわけにはいかなかった。

子どもの時にピアノを習っていて、好んで弾いていた童謡があった。「長城謡」という、有名な抗日歌曲である。中国音楽の「五声」で書かれたこの曲はメロディーがとても優美で、子どもながらノスタルジアを感じずにはいられなかった。歴史を学び、歌詞の意味を知ったのは随分後のことだった。ここで歌詞の一部を摘訳する。

万里の長城は万里ほど長く、長城の外はかつて故郷だった。

コーリャンは実り、大豆は香り、辺り一面は黄金色で災難も少ない。

大難が平地に起こって以来、強姦略奪が横行して苦しみに耐えられない。

苦しみに耐えられず、他方に逃げ、肉親が離散して父母も失う。

1931年満州事変後、中国の東北が日本軍の手に落ち、日本は自らの息がかかった政権「満州国」を成立させた。そんな日本軍に蹂躙(じゅうりん)される東北の惨状を歌うのが、この「長城謡」である。こんな歌が童謡(本当は「長城謡」は作曲当時、童謡ではなかったが、私が小さい時にそれは確かに童謡集の楽譜に収められていた)?と驚く人もいるかもしれないが、特定のイデオロギーを植え付けようとする為政者は、童謡をプロパガンダとして使わない手はない。台湾でとても有名な童謡「只要我長大(大人にさえなれば)」も、男性中心主義を当然視し、反共思想を宣伝するための戦争・兵役礼賛の歌である。 

このように、今にして思えば自分も成長過程の中で多くの「反日的」な要素に触れてきた。中学では歴史の授業で当然ながら日清戦争や台湾割譲、霧社事件、日本軍による中国侵略、南京大虐殺、抗日戦争、慰安婦問題について習った(因みに国民党が引き起こした二・二八事件や白色テロの惨劇はある程度棚に上げられ、詳しくは語られなかった)。担任は国語の教師で、やはり日本嫌いで、授業で日本人を「有礼無体(表面的な礼儀ばかり重んじ、実態が伴わない)」と批判した。中学2年生の時に私は日本語を独学し始めたが、そのことを担任はあまり快く思わなかった。当時のクラスでは英語を練習するために、1日1文、自分で英語の文を作り、中国語訳とともに学校の連絡簿に書かなければならなかった。ある時期から私は英語と中国語と共に、日本語の文も併記することにしたが、そのことがある程度担任の顰蹙(ひんしゅく)を買ったと思う。さすがに真正面から怒られはしなかったが、何度か「なんで侵略者の言語を学ぶんだ?」「日本語の文字ってどうせ中国語のパクリでしょ?」と嫌みを言われたことがあった。両親は私の日本語学習を妨げたりしなかったものの、やはり時折「なんで日本語がそんなに好きなんだろう」と不可解に首を傾げたこともあった。

「日本が嫌いな人たちは確実に、身近なところに存在している」、私は早くからそう分かっていた。そして多かれ少なかれ、彼らの影響を受けていた。「日本人は残虐で怖い」という第一印象は前述の通りで、慰安婦問題を教わった時には本気で日本という国が汚らわしいと思った。1972年の日本と中華民国の国交断絶を習った時の素直な感想として、「やはり現金な人達だ、中華民国が国連から追放される(1971年)と真っ先に国交を絶ったんだな」というものだった。それでも私がそれ以上反日思想を増幅させることなく、今日のような「親日的」な人間に育ったのは、結局のところ「言語」と「文化」のおかげだったと思う。

日本の「言語」「文化」の魅力

中学2年生の時にふとした思いで習い始めた日本語、その美しさが私を魅了した(日本語に対する思いについては「日本語籍を取得した日」を参照)。子どもの頃から親しんでいた『名探偵コナン』や『ポケットモンスター』といったアニメも、日本と日本語に対する親近感を抱かせた。後に触れた芥川龍之介や村上春樹といった日本文学の作家、彼らが作り出した世界もまた魅力的なものだった。もちろん、『涼宮ハルヒの憂鬱』や『らき☆すた』といったヲタク系アニメが見せた日本のもう一つの側面も、非常に興味深いものだった。

主に歴史的な事柄から来る日本への嫌悪感(の種子のようなもの)と、言語や文化を通じて感じた日本の魅力。自分の中にある相反した2つの感情との付き合い方を、私は自分なりに模索する必要があった。かつて日本軍や日本政府が犯した罪に、そして現代になってもその罪状を認めようとしない歴史修正主義者が存在することに、私は強い憤りを感じた。しかし一方で、私は現代日本に少なからず興味を持った。大嫌いな世界地理の授業で最も興味深く習ったのが日本だったし、授業の他では喜んで日本語の世界に浸り、日本の流行文化を消費した。嫌悪と愛情の線引きを、私は自分なりに決めて、割り切る必要があった。

今にして考えれば非常に浅はかだったが、一時期において私の割り切り方はこのようなものだった。「悪いのは昔の日本人で、今の日本人には罪がない」「罪を犯したのは昔の人間で、今の文化や言語には罪がない」「日本だって被害者であるアジアの国で、米国が日本を侵略していなければ日本も加害者になっていなかった、つまり全ては欧米列強の責任だ」。このように、私は自分の中にある「日本が好き」という感情を受け入れるのに、ある意味必死だった。

しかし皮肉なことに、そのハードルを乗り越えた先に、今度は「好き」の度が過ぎることになった。台湾社会の現実に対するさまざまな不満のはけ口として、私は勝手に日本という国を利用した。「台湾は何もかも遅れていて、日本は何においても優れ進んでいる」、このように、自分の理想と憧憬(しょうけい)の投影として勝手に日本を祭り上げ、そんな幻想を見いだしていた。言うまでもなく、これもまた無知極まりない考えだった。思い込みの激しい年頃だったということもあり、一つの国と適切な距離感を保って付き合うことは、私には難しかった。その距離は時には近過ぎて、時には遠過ぎた。恐らく他人や世界との距離感についても同じだったのかもしれない。

日本に移り住んでから、私は自分なりの日本との適切な付き合い方を見つけていくことを心掛けた。扶桑(ふそう)の国での生活を通して、私は多くの興味深い文化といとおしい人達に出会い、またそれと同じくらい、保守的で後進的な面や、社会の隠れた闇を垣間見た。この両者によって自分の中の天秤に重しが絶えず足されていき、天秤は交互に傾き続けた。光があれば影が生じるように、天秤の両側にあるもの、どちらも本物の日本に違いない。

一つの国、一つの地域を無条件におとしめ、嫌悪することと、一つの国、一つの地域を無条件に褒めたたえ、愛すること――そうしているうちは、あるいはその国や地域についてまだまだ無知である証なのかもしれない。「光」しか「観」えてこないうちは、いつまでも「観光」しかできない。そのことを私は自らの体験を通して実感した。やがて私は、一つの国や地域を一つの総体として語ることの無意味さに気付いた。台湾が好き、日本が好き、中国が嫌い、韓国が嫌い――そんな言葉を口にする時に私たちが口にしているのは、結局のところどういうことなのだろうか。

「親日」「反日」「好き」「嫌い」、そんな言葉はもちろん便利で、私も便宜的に使うことがよくある。しかし本当のところ、そういった表面的な言葉を越えたその先に見えてくる何かこそ、本当の意味での理解につながるものではないだろうか。

バナー写真=lingtsyr / PIXTA

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