ニッポン偉人伝

福沢諭吉:独立した個人による国家の発展を説いた思想家・教育者

歴史 文化

平山 洋 【Profile】

幕末から明治初期を生きた福沢諭吉は、『西洋事情』や『学問のすすめ』など国民を啓蒙(けいもう)するベストセラーを著すとともに、慶応義塾大学の創設や『時事新報』の創刊など教育者・実業家としても活躍した。

揺れ動いた明治政府との関係

明治維新は、長州藩と薩摩藩を中心とする勢力が徳川家を将軍の座から引き下ろし、新たに諸大名の連合体を組織することで実現した。福沢は当初、明治政府の中枢にこれまで尊王攘夷(じょうい)を唱えてきた長州藩がいることに危惧を覚えていたが、新政府が旧幕府の開国文明化政策を引き継ぐと分かった後は、外部からの支援を惜しむことはなかった。特に親密だったのが、英国型近代化を日本の範とする大隈重信(佐賀藩出身)と井上馨(長州藩出身)、そして鉄道建設を推進していた岩倉具視(公家)である。

幕府旗本の身分を有していた福沢は敗者の一員ではある。とはいえ、1873年の征韓論で大久保利通(薩摩藩出身)が実権を握るまでは、文明政治の6条件は、新政府親英米派の人々によって、着々と実現されつつあった。ところが、プロイセン型近代化を志向する大久保政権に移るや、福沢の構想に抑制がかけられてしまう。福沢は私人の自由な経済活動を重要視したが、大久保は国家の管理による上からの近代化を推進しようとした。『分権論』(1877)など大久保暗殺(1878年)以前の言論活動では、弾圧を警戒しながらも大久保に最大限の抵抗を試みている。

大久保の死後、政府の実権は再び福沢の盟友大隈重信の手に帰した。そのため、1878年から81年までの間、福沢は大隈を支えるべく『民情一新』(1879)、『時事小言』(1881)など重要な著作を続々と著し、さらに交詢社案で知られる憲法草案の起草を図った。ところがこうした英国型近代化を推進するための言論活動は、明治14(1881)年の政変により大隈や慶応義塾出身の官僚らが下野を強いられたことで、無に帰してしまう。大久保の路線を継承した伊藤博文(長州藩出身)を中心とする政府は、以後、政治・経済・教育への統制を強めていくことになる。

国家に依存しない個人の確立を重視

慶応義塾を創設して優れた人材を輩出する一方、実業家としては1882年に新聞『時事新報』を創刊して政治・時事・社会問題や婦人問題などに幅広く論説を発表した。同新聞刊行以降の日本の発展に関する福沢の感情は複雑である。政権を掌握した伊藤にしても、一国の独立は重要な課題であった。その点で福沢と違いはないのだが、ただ伊藤は福沢ほどに独立した個人の確立を重んじてはいなかったのである。そのことをよく知っていた福沢は、一身の独立を確固たるものにしない国家の脆弱性について、懸念を覚えたのだった。

89年の大日本帝国憲法の制定によりプロイセン型国家体制は完成され、教育制度についても官学を主とし私学を従とする経路が確立された。日清戦争の勝利により、一国の独立については取りあえずの小安を得たが、人民の国家への依存がますます強まりそうな気配で、一身の独立について福沢は危惧を抱いた。『福翁百話』(1897)、『福翁自伝』(1899)といった日清戦争後の著作が、すべて一身の独立に関するものであったのは、そのためかもしれない。

1901年、脳卒中の再発により死去。享年66歳。1868年の明治維新を折り返し点として、激動の時代を前後33年ずつ生きた生涯であった。

バナー写真=1891(明治24)年頃の福沢諭吉。この肖像は、1984(昭和59)年に発行された日本銀行の1万円紙幣の原画となる(慶応義塾福沢研究センター所蔵)

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平山 洋HIRAYAMA Yō経歴・執筆一覧を見る

哲学者・歴史学者。静岡県立大学国際関係学部助教。専門は倫理学・日本思想史。1961年神奈川県生まれ。慶応義塾大学文学部哲学科卒業。東北大学大学院文学研究科博士課程修了。博士(文学)。ハーバード大学ライシャワー日本学研究所客員研究員などを経て2007年より現職。主な著書に『福沢諭吉の真実』(文藝春秋、2004年)『アジア独立論者 福沢諭吉』(ミネルヴァ書房、2012年)、『「福沢諭吉」とは誰か』(同、2017年)など。

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