日本の神話(1):大和王権が語る“歴史の起源”

文化 歴史

日本の建国神話は、『古事記』『日本書紀』に記されたものによっている。誕生の時代背景を解説するとともに、イザナキ・イザナミの国生み物語を紹介する。

8世紀に生まれた大和王権国家の歴史書

712(和銅5)年に成立した『古事記』(『記』)と720(養老4)年に成立した『日本書紀』(『紀』)は、大和王権が作った国家の歴史を記した作品である。国家の歴史書はどのような背景のもとで、どのような意図をもって作られたのか。歴史的背景としては二つのことが挙げられる。一つは、東アジアにおける日本(正式に日本という国名ができたのは700年頃)の立場の変化、もう一つは国内政治の一新である。

寛永版本『古事記』。1644(寛永21)年刊行の『古事記』の最初の板本である(編集部撮影)
寛永版本『古事記』。1644(寛永21)年刊行の『古事記』の最初の板本である(編集部撮影)

5世紀の東アジアでは、中国の歴代王朝が冊封(さくほう)体制を敷いて一大帝国を営んでいた。当時の日本は倭(わ)の五王の時代で、その帝国の片隅にあって478年に倭王武(わおうぶ、第21代雄略天皇)が宋の順帝に上表文(皇帝に奉る文書)を送り、服従の意志を表している。ところがその後、およそ1世紀間の日中国交空白の時代が訪れ、7世紀初頭の推古天皇(第33代天皇)の時代には、「(日本にも)日出(ひいづ)る処(ところ)の天子がいる」と主張し、冊封からの離脱宣言を行うようになっていた。その推古朝に、聖徳太子らによって「国記」と呼ばれるものの編纂(へんさん)が企てられ、これが国家の歴史書作りの初めだと考えられている。

国内的にも、7世紀には645年の大化の改新、672年に終結した壬申(じんしん)の乱など、政治体制を一変させる出来事が相次いた。「大化」は、日本が独自に持った初めての元号である。もともと元号とは、中国の皇帝が「時間の支配者」である証しとして定めるものであったから、この出来事も冊封からの離脱宣言の一環だと言えよう。

壬申の乱は、日本古代史上最大の皇位継承争いである。勝利を収めた大海人皇子(おおあまのおうじ、第40代天武天皇)が皇位を継承し、統治のための基本法典である律令(りつりょう)を定め、新しい国家の建設に乗り出すことになった。『記』『紀』の編纂は、このような流れの中で、天武天皇の発案によって開始された。  

まとめておこう。国家の歴史書は、新しい国家の建設を目指す時に、その時代の為政者によって作られる。国家を次代に導くためには、まず過去の「正しい歴史」を定め、その歴史の上に自らの立場を正当化する必要があったのだ。もちろん「正しい歴史」とは為政者の基準に従った「正しい歴史」である。そのようなわけで、聖徳太子や天武天皇が国家の歴史書を必要とし、それが『記』『紀』として結実したのである。

寛永版本『古事記』の本文(編集部撮影)
寛永版本『古事記』の本文(編集部撮影)

神話力を活用して語られる国家の起源

『記』『紀』は国家の歴史を「神代(かむよ)」という神々の時代から説いている。天地創生に始まり、イザナキ・イザナミの国生み、アマテラスとスサノオの葛藤、八俣(やまた)のオロチ退治、オオクニヌシの国造りと国譲り、天孫降臨、海幸彦(うみさちひこ)・山幸彦(やまさちひこ)の兄弟争いなどを経て、初代天皇とされる神武天皇となるカムヤマトイワレビコの誕生に至る。「神代」という一時代の記録としてあるのだが、それを現代の日本人は、神々の物語、つまり「神話」として享受しているわけだ。

ところで、なぜ歴史の初めに神話が必要だったのだろう。神話は、それを伝承する人々にとって間違いなくあった過去の出来事を伝えるもので、人の生死、社会の掟(おきて)などを決定する力を持つ。世界の民族はそれぞれ神話を持ち、神話と共に生きた時代があった。同様に日本列島に住んでいた人々も、各地で小さな共同体を営み、それぞれの神話に従って生き、そして神話の説くとおりに確実に死んでいった。そんな時代があったはすだ。そのような神話の力を活用して、大和王権国家の起源を語ることが有効だったのだろう。

『記』『紀』神話の主題を簡潔に言えば、「至上神アマテラスの子孫が降臨し、国家を統治する」ということだ。しかしそれだけ言っても、列島各地でさまざまな神を祭り、それぞれの神話に従って生きていた人々に対して説得力はなく、確かな歴史だとは認められないだろう。だから、『記』『紀』の神話は、アマテラスを唯一絶対神とはせず、多くの氏族の祖先神や、有名無名の地方の神々を登場させ、民間で伝承されていた神話も載せている。出雲地方のスサノオのように活躍する神はむしろ少なく、多くは名前のみであるが、列島各地の人々にとって、われらの神が出てくれば、『記』『紀』を正しい歴史と認める根拠の一つになったに違いない。『記』『紀』はそうした心理を利用して神話の力を維持し、その上で主題を普遍化したのだ。

『記』『紀』の神話は、大和王権が作ったそれぞれ一つの作品であるが、その作品の背後には、長い年月にわたって列島各地で築かれてきた思想や文化の累積があったと考えるべきであろう。

イザナキ・イザナミの国生み神話

今回は、主として『古事記』によって、日本神話の世界を紹介しよう。

まず国生みの神であるイザナキ・イザナミの神名であるが、「イザナ」は「誘(いざな)う」という意味、「」と「」はそれぞれ男女を表している(オナ・オナのと同じ)。高天原(たかまのはら、天上の国)にいる天つ神(あまつかみ)からの指令を受けた二神は、高天原から天の浮橋(あめのうきはし)に立ち、アメノヌボコという矛を使って海水をかき混ぜる。その矛を引き上げると、矛の先から塩がポタポタと落ち、それが積もってオノゴロ島が出来(しゅったい)した。イザナキは、もともと淡路島を中心とした瀬戸内地方の海人(あま)族の神だったと言われており、オノゴロ島の話の背景には、古代の製塩法があるとも説かれている。

その島に降り立った二神は、神名が示すような「誘い合う男女」として、史上初めて夫婦となる。しかし女であるイザナミが先に声を掛けたためにヒルコが生まれてしまい、二神は葦船(あしぶね)に乗せ流し棄(す)てる。こうした行為の背景には、「夫唱婦随」という儒教思想の影響があったと言われている。

ヒルコは『日本書紀』でも「蛭児(ひるこ)」と書かれ、3歳になっても脚が立たないとされており、本居宣長は「蛭のような骨なし子」であると説いた。また900年代に成立した『新撰字鏡(しんせんじきょう)』や『和名抄(わみょうしょう)』という字書には、歩行困難になる病状として「ヒルム」という語が記されており、それがヒルコの語源であるとする説もある。

『記』『紀』では負の存在として描かれているヒルコだが、もとは男性太陽神だったとする説もある。『日本書紀』には太陽神アマテラスの別名として「オオヒルメ」という神名があり、それが「大(おお)+日(ひ)+る(「の」と同じ)+女(め)」、つまり「大いなる日の女」であるならば、ヒルコは「日の男」の意であろうというものだ。「」と「」は、「オトコ・オト」、「ヒコ・」、「ムス・ムス」の場合と同じく男女の意になり得る。大和王権がアマテラス以外の太陽神を認めるはずはなく、だから「蛭」として排除されたのだという。こうして流し棄てられたヒルコだが、その後に漂着し、豊漁をもたらす神になったとして、後世には蛭子神(えびすしん)と習合されることになった。

この後、イザナキ・イザナミは、イザナキ(男)から声を掛けるやり方で再び夫婦関係を持ち、淡路島をはじめとして、日本列島の島々を次々に生んでいった。列島の名は大八島国(おおやしまぐに)。「八」は多数を表す数字なので、「大いなる数多くの島々から成る国」の意味で、律令制下でも国内向けの日本の国号として用いられた。

バナー写真=日本三景の一つに数えられる天橋立(京都府宮津市)。『丹後国風土記』逸文によると、国生みをしたイザナキが天に通うために建てた橋が、同神の就寝中に倒れてできたという(PIXTA)

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