東芝が生んだ万能炊飯器「大同電鍋」、台湾で生まれ変わって日本へ再上陸
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日本で人気急上昇
最近、大同電鍋(大同電気釜)の「日本進出」が目覚ましい勢いだ。大同電鍋とは、白米が炊けるだけではなく、他の料理で煮ても良し、焼いても良しの万能炊飯器で、台湾に本社がある大同公司が1960年に売り出した。台湾の家庭に必ず一つはあると言われるほど台湾で広く普及した調理器具であり、私にとっても台湾の実家に幼い頃から備え付けられていた、とても懐かしい商品である。
台湾ではごくごくありふれた調理器具である大同電鍋が「かわいい」「欲しい」「使いたい」という評判とともに日本市場を席巻している。日本で大同電鍋が人気上昇中だと聞いた台湾人の中には不思議そうな顔をする人も多い。台湾人にとっては、身近すぎる存在なのかもしれない。
大同電鍋の知名度が一気に広がったきっかけは、2018年の年末に発売された日本の生活情報雑誌「Mart」2月号の表紙を飾り、「2019年に流行しそうな商品」のベスト10の中に取り上げられたことだろう。
実は、以前から大同電鍋は台湾好きの日本人の間でひそかなブームとなっていた。台湾に暮らしている日本人は、その普及ぶりを目の当たりして興味を持ち、自分で利用してみると非常に使い勝手がいいことに気付くからだ。
日本市場開拓のチャンスに着目した大同公司は、大同電鍋の電圧を日本仕様に調整し、2015年に日本販売会社を東京の千代田区にオープンしている。最近のブームで大同電鍋専用の日本語ホームページも立ち上げた。そこには「旨辛角煮」や「生姜とダックのスープ」など、大同電鍋を使った料理レシピも掲載している充実ぶりである。
「原点」は東芝製の炊飯器にあり
先日、東京・上野にある国立科学博物館を訪れた。科学博物館では特別展「日本を変えた千の技術博」を開催していた。私は理系のせいか、ものづくりの技術に関する話が好きで、普段から興味深い展示があると科学博物館に足を運ぶことが多い。
今回、私のお目当ては大同電鍋の「原点」を見ることだった。
2018年は明治維新からちょうど150年にあたる。19年の5月には、平成から新元号の「令和」に切り替わる。そんな時代の節目で、特別展においては、明治から大正、昭和、平成に及んだ150年の年月の中で、日本人の暮らしを変革した科学技術や発明を包括的に紹介する狙いがあった。
大同電鍋の「原点」は、電化製品の展示場所にあった。他の家電に比べサイズが小さく、思わず見落としてしまいそうになった。白い本体には、アルファベットの「Toshiba」のロゴが刻印されている。展示の説明には「1955年販売開始『自動式電気釜ER-4東京芝浦電気/製』」と表記されていた。
詳しい解説を読むと、光伸社という会社の三並義忠氏という人物が、東京芝浦電気(現東芝)から開発協力を求められ、完成した、と書かれていた。展示品は台湾の大同電鍋ではないが、外見は大同電鍋にそっくりだ。
日本で初めて家庭電化製品が登場したのは明治時代。まず熱を発するヒーターや調理器、アイロンが開発され、次いで、モーターを使う扇風機やポンプが製造された。家庭まで電気が届いたのはこの後。大正時代に入り、人々は生活に合理化を求め、「生活改善」と呼ばれる社会的なムーブメントが起きた。「職業婦人」という言葉が生まれ、女性の家事負担の軽減が求められ、トースターや電気ごて、電気アイロンなども続々と登場した。
そして、大正末期から昭和初期にかけ、女性が家事に割く時間の短縮に大きく役立った電気掃除機や電気洗濯機が次々に発売されていった。
日本人にとっての主食はお米だ。お米の炊飯は、もともと調理人が経験に基づき、気温や湿度の違いも考慮し、かまどのまきの火を調整しながら行う面倒なものだった。掃除、洗濯の時短が実現できても、炊飯の自動化はなかなか実現できずにいた。たとえ米が炊けても、自動で電源を切れるようにするのはさらに技術的に難しく、自動炊飯器の開発は他の電化製品より遅れた。
前述の三並氏は、家族と共に実験を繰り返し、3年の年月を費やして1955年に完成させたのが、展示されていた自動式電気釜ER-4だった。三並氏は1908年に愛媛県新居浜市で生まれ、若い頃に上京して芝浦工大で学び、技術者となる。ドイツ系の機械商社アンドリュウス社に入社後、34年に光伸社を設立し、一時は倒産寸前になったが、自動式電気釜ER-4の発明で事業は息を吹き返した。その功績で日本政府から科学技術賞に選ばれ、その人生がNHKの人気番組「プロジェクトX」にも取り上げられたことがある。
自動式電気釜ER-4の使い方は簡単だった。まず米と水を内釜に入れる。続いて内釜と外釜の間の層に水を入れる。スイッチを入れると水が沸騰し、その熱で内釜のご飯が炊飯され、水は蒸発する。高温で形が変化するバイメタルスイッチでスイッチは自動的に切れ、最後に蒸されて、ふっくらとした美味しいご飯が炊きあがるという仕組みだ。
シンプルな3重構造となっており、いかなる温度と湿度でも、規定量のお米と水を入れ、スイッチを押せば、誰でも自動的においしいごはんを炊くことができる、当時の庶民には夢のような炊飯器の誕生だった。
不可能を可能にした自動式電気釜ER-4は、当時は高価だったにもかかわらず、数年で日本の全家庭の約半数にまで普及した。その結果、かまどのすすや煙がなくなり、住宅事情も大きく改善したと言われている。
自動式電気釜ER-4に続けと、東芝以外の家電メーカー各社も追随し、タイマーを付けたり、保温機能を付けたりと、より利便性を高めた製品が考案されてきた。現在も、各社が圧力やIH、遠赤外線などを用いた独自の技術を開発し、よりおいしくご飯が炊き上がるよう、炊飯器は進化を続けている。実際、家電量販店に入り、炊飯器のコーナーを見れば、数千円のものから10万円を超える超高級炊飯器まで多種多様に揃っていることに驚かされる。
自動式電気釜ER-4は日本で原型をとどめないほど変化を遂げたが、当時の姿のままで消費者に愛されているのが台湾の大同電鍋なのである。
大同電鍋は今も大同公司の「顔」
大同公司は1918年に設立された建設会社だ。42年に「大同工業専科学校(現・大同高校)」を立ち上げ、49年には、台湾ブランドとして最初の扇風機を開発した。その後、東芝の技術サポートを受け、60年に大同電鍋が誕生した。これをきっかけに、大同公司は、日本の東芝同様、冷蔵庫、テレビなどを製造し、台湾の家電業界のトップに位置する大企業となった。
70年代に入ると、台湾政府の要請で、国家プロジェクトの「十大建設」にも携わり、桃園空港の変電所などを手がけ、まさに台湾という国の成長と共に、大同公司も発展した。現在はソーラーパネル、液晶ディスプレイなども手がけるほど、事業は多角化している。創業100年の2018年の統計では、大同電鍋は50万個も販売された。バージョンアップしたモデルも出ているが、今も昔も大同電鍋は大同公司の「顔」であることに変わりはない。
まるで「アラジンの魔法のランプ」のような存在
物心がつくかつかないかの幼少時から、わが家には大同電鍋があった。私は生まれて間もなく、台湾人の父の仕事の関係から台湾で暮らし始めた。日本人の母はいつもキッチンに立ち、家族のために料理を作っていた。
キッチンには、いつも楽しそうな音とおいしい匂いが充満していた。ゴーゴーと高速スピードのごう音を立てるフードミキサー。中華鍋を豪快に振り上げながらカンカンとお玉と鍋底が触れ合う金属音。トントントンとリズミカルな包丁さばきから切り出される数々の食材。母の手にかかれば、父の好む日本食と、私が好きな台湾料理が次々と誕生し、円卓へと運ばれる。
キッチンには、所狭しとさまざまな調理器具が並べられていたが、もっともフル回転していたのが、大同電鍋だった
大同電鍋の本体は緑色。隙間から漏れ出る蒸気の振動で、銀色の鍋ぶたは小刻みにカタカタと揺れる。湯気の匂いから、中の料理を当てることができた。
例えば「瓜仔肉」。ひき肉とキュウリの漬物を混ぜ合わせ、真ん中に塩卵の黄身を乗せて蒸したものだが、五香粉の香りがたまらない。中国語でご飯が進むという意味の「下飯料理」として、老若男女誰もが大好きな家庭料理だ。大同電鍋の中から、他にも熱々の茶碗蒸しや鳥スープ、おやつの蒸しカステラ、肉まんなどが次々と私たちの食卓に運ばれた。
スイッチひとつで何でも作り出せる大同電鍋はまるで「アラジンの魔法のランプ」のような存在に見えた。私が11歳になり、日本への移住が決まった際、母が真っ先に引越しの荷物に入れたのも大同電鍋だった。
大同電鍋を持っているか否かで台湾人かどうか分かる
大学時代、夏休みを利用してドイツに短期留学をしたことがある。大学の宿舎に寝泊まりしていた際、部屋に大同電鍋があるかないかで、台湾人かどうかを一目で見分けられることに気が付いた。日本に留学に来ている台湾人らに、「大同電鍋持ってきている?」と聞くと、答えは全員「もちろん」である。
なぜここまで台湾人に大同電鍋が愛用されるのか。それは、台湾の食文化が大きく影響しているように思える。
台湾料理というと、日本人はどうしても炒めることを連想しがちだが、意外に多いのが「蒸す」と「煮る」という調理法だ。大同電鍋は炊飯の他、「蒸す」「煮る」も可能な複合調理器として台湾人に受け入れられ、広まったと考えることができるだろう。一方、日本料理には長い時間をかけて「蒸す」と「煮る」という調理法は実際あまり多くはない。大同電鍋が一台あれば、故郷台湾の味、家庭の味をいつでも、どこでも、簡単にかつ確実に再現できるのだ。
大同公司は時代の変化とともに、従来の白や緑、赤色の他に、ピンクや青、黒、黄色などの新しい色を出し、キャラクターとコラボした限定モデルなども打ち出した。中華圏を代表する映画賞の「金馬奨」の記念品に使われたりもした。
オリジナルの機能と形状がほとんど変化しなかったかわりに、消費者の利用法が進化し、大同電鍋で野菜を炒めることやピザを焼くことまで考案され、万能化がますます進む状況になっている。
私の東京の自宅近くにできた台湾のタピオカミルクティー専門店の店先には、ピンクや金色の大同電鍋が並べられていた。カラフルで、なかなかかわいらしい。インテリアの一つと思って見ていたら、タピオカを保温するために使われていた。本当に大同電鍋は便利だと改めて感心させられた。
台湾人の家庭に、少なくとも一台は必ずある大同電鍋。元々は60年以上前に日本で誕生し、海を渡って台湾に根付いたものだ。いま、再び日本に戻り、今度は台湾製品として広まりつつあることに、日本と台湾の不思議な縁を感じる。今後、日本料理向けの利用法が出てくるとさらに面白い。
科学博物館を訪れたあと、久々に、わが家にある大同電鍋で夕食を作ってみた。いつも私はだんだん重ねで使う。一番下段に鳥スープ。真ん中に瓜仔肉。最上段にマナガツオを置いて、スイッチポン。たっぷりの湯気と共に、台湾の香りが家中に漂った。やっぱり大同電鍋は便利だ。
バナー写真=売り場に並べられた大同電鍋(筆者撮影)