狛犬——台湾と日本をつなぐ身近なアート彫刻

文化 歴史 美術・アート

山口から台湾に渡った狛犬のその後

どうして山口から台湾へ、狛犬は渡ったのだろうか?

台湾の日本時代初期に、マラリアで命を落とした北白川宮能久親王を祭るために台湾神宮が創建された。この時の台湾総督が、徳山市(現周南市)出身の陸軍大将・児玉源太郎だったことと関係がありそうだ。『臺灣石獅圖錄』には、台湾神宮の狛犬は1902(明治35)年に当時の陸軍高官が奉納したと記されている。この高官こそ、児玉源太郎だったのではないか。さらに、歴代の台湾総督19人のうち、5人が山口県出身者であるなど、山口県と台湾のつながりは非常に深い(拙著『台湾と山口をつなぐ旅』・西日本出版社刊を参照)。

かつての台湾神宮の参道(現在の台北市中山北路)に架かっていた「明治橋」(現・中山橋)には山口県産の徳山石が使われたとの記録もあり、インフラ建設のために台湾に渡った石工集団が、狛犬の製作にも携わった可能性も考えられる。

山口県産の徳山石で建設された「明治橋」(現・中山橋)(筆者提供)
山口県産の徳山石で建設された「明治橋」(現・中山橋)(筆者提供)

戦前に日本から海を越えて台湾に渡った狛犬。しかし戦後、狛犬はさまざまな運命をたどった。2017年、台北市士林区にある「円山水神社」跡の文化財に指定された狛犬が盗難に遭い、その後、日本の植民支配をののしる言葉がペンキで書かれるという事件があった。一方で、上述の彰化県和美(元・金刀比羅神社)の狛犬は、一度、南投県へ贈与されたが、和美の人々の声で2005年に再び地元に戻ってきた。

最近は日本全国各地で、狛犬愛好家も増え、狛犬にまつわる同人誌も発行されるようになった。

先述の藤井氏は、「狛犬さんを身近な彫刻アートとして楽しむことで、地域への愛着も湧き、普段の生活の中で新鮮な発見があります。また、身近な狛犬さんから台湾へと、海を越えて思いをはせてみることも楽しいです」と話してくれた。

世界の歴史的な脈絡の中にあり、人間の営みと常に関わり合い、見る人の思索を巡らすものが「美術」であり「アート」であると筆者は考える。つまりアートとは生き物で、それをめでる人・身近で世話をする人・それについて考える人々がいなければ、アートは生き続けることができない。狛犬は現代社会の中でアート作品として生き返った、そんな風にいえるかもしれない。

旧台湾神宮の狛犬(筆者撮影)
旧台湾神宮の狛犬(筆者撮影)

参考資料

  • 山口狛犬楽会(ウェブサイト)
  • 『臺灣石獅圖錄』(陳磅礡、2013年、猫頭鷹出版)

この記事につけられたキーワード

神社仏閣 神社 台湾 山口県 狛犬

このシリーズの他の記事