狛犬——台湾と日本をつなぐ身近なアート彫刻

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日本の神社の入り口にたたずむ「狛犬」(こまいぬ)。

一見、どれも似たものばかりと思われるかもしれないが、よくよく比べてみると多様な表情や姿を持っている。関東・関西・九州など地域によっても異なる特徴や個性があるというのだから、狛犬の世界、実はけっこう奥深い。

台湾でも、古くから寺や廟(びょう)などに獅子像が置かれているが、台湾の日本時代に各地に建てられた日本式神社にあるのは、日本式の狛犬だ。現存する台湾の日本式狛犬を20年かけて訪ね歩いた市来訓子氏と片岡元雄氏は、「台湾の狛犬の故郷のひとつは山口県かもしれない」との説を唱えている。市来氏は、日本参道狛犬研究会関西支部長を務める狛犬の専門家で、山口県と台湾の狛犬に多くの共通点が見いだせるのだという。

台湾の狛犬の故郷のひとつは山口県

狛犬の起源については諸説あるが、山口県で狛犬を愛好する会「山口狛犬楽会」を主宰する藤井克浩氏によれば、そのひとつは古代オリエント文明において神の守護神として作られたライオン像に端を発するという。エジプトのスフィンクスが東のインドへと渡り、仏教と共にアジア諸国へ伝わった。中国で獅子、シンガポールでマーライオン、沖縄でシーサー、日本へは飛鳥時代ごろ渡ってきた。

山口狛犬楽会の藤井克浩氏(筆者撮影)
山口狛犬楽会の藤井克浩氏と深浦八幡宮の狛犬(筆者撮影)

中国大陸の寺廟を守る獅子像は左右対称だが、日本の狛犬の多くは左右非対称だ。右側は大きく口を開いた「阿(あ)」像、左側が口を閉じた「吽(うん)」像となっている。実は、右は獅子、左は狛犬なのだが、いつの頃から、左右合わせて「狛犬」と呼ばれるようになったらしい。中国から伝来した時には対の獅子だったものが、なぜ、日本では狛犬と獅子の組み合わせになったのか定かではないようだが、藤井氏は左右非対称を好ましく思う日本人の美意識によって、独自の深化を遂げたのではないかと推察している。鎌倉時代に入ると狛犬文化は全国へと広がり、「大阪型」「出雲型」「尾道型」などそれぞれの地域色がにじむようになる。

各地のスタイルは、本州の西の端にあり海を介した物流の拠点でもあった現在の山口県に、日本海から「出雲型」、瀬戸内海から「尾道型」、陸ルートから「大阪型」が流れこみ、独自の「山口狛犬」を発展させた。瀬戸内側の周南市(旧・徳山市)を中心に山口狛犬が発達した大きな理由のひとつには、周南市沖合にある黒髪島が高品質な花崗岩「徳山石」の産地のため、技術のある石工が集ったことがあげられる。

「台湾の狛犬の故郷のひとつは山口県」という仮説の発端となった狛犬が山口市にある。今八幡宮に置かれている1933(昭和8)年作のものだ。平たく横長の顔、極端に強調された装飾的なたてがみ。戦前は台南神社で現・台南忠烈祠の山門前にある狛犬と瓜二つだ。台湾の獅子像研究者がまとめた『臺灣石獅圖錄』によれば、台南のこの狛犬の特徴のひとつに「阿形狛犬口中含珠,雄性性徴非常寫實。」(阿像は口に玉を含み、雄の特徴が表されている)とあるので、これも今八幡宮のものと全く同じである。

今八幡宮の狛犬(筆者撮影)
今八幡宮の狛犬(筆者撮影)

台湾と山口の狛犬の類似点

冒頭の市来訓子氏や片岡元雄氏は、台湾と山口狛犬に見られる共通点を以下のように指摘している。

  • 長い垂れ耳
  • 縄のようなねじれた眉
  • 半球状の出目
  • 阿像の開いた口の上下の牙がくっついて、上あごと下あごがブリッジ状につながっている
  • 阿像の口のなかに可動式の玉がある
  • 吽像の頭上にこぶのような小さな角がある
  • たてがみの巻毛が首の位置に並んでいる
  • 身体には線刻の円弧を並べた渦巻文様がある
  • 尻尾は毛並にねじりの入った縦尾
  • 尻尾を真後ろから見ると、中心の縦尾から左右に巻毛が分かれ、さらに真ん中に蕨手文様(わらびてもんよう)の巻毛がある。

これらは山口県下でも特に、下関市から周南市にかけてみられる特徴だそうで、「山口狛犬楽会」の藤井氏の案内の下、該当する狛犬を訪れた。

下関市にある「亀山八幡宮」の狛犬は、1901(明治34)年に創建された台湾神宮跡(現・円山飯店)近く、剣潭公園の入り口にある狛犬にそっくりだ。台湾に現存する台湾の日本時代の狛犬としては最大で170センチほどもある。亀山八幡宮のものは1874(明治7)年作と時期は30年ほど早く、台湾より小ぶりだが、オカッパ頭のような頭髪や長く垂れた耳、縄のようにねじれた眉、半球状の出目など多くの共通点が見られ、まさしく台湾神社の狛犬の原型と言えそうだ。

亀山八幡宮の狛犬(左)と旧台湾神宮の狛犬(右)(筆者撮影)
亀山八幡宮の狛犬(左)と旧台湾神宮の狛犬(右)(筆者撮影)

台湾中部の彰化県和美の製糖工場内に建立された「和美金刀比羅社」(現・和美徳美公園)に、1916(大正5)年に奉納された狛犬は、山口県山陽小野田市の津布田八幡宮にある1912(大正1)年に製作された狛犬とうり二つだ。西山五郎という石工によって作られたもので、その他、下松市の深浦八幡宮、周南市の二俣神社、同市の賀茂神社の狛犬にも、旧・台南神社の狛犬との類似性が見られた。

西山五郎作、津布田八幡宮の狛犬(筆者撮影)
西山五郎作、津布田八幡宮の狛犬(筆者撮影)

山口から台湾に渡った狛犬のその後

どうして山口から台湾へ、狛犬は渡ったのだろうか?

台湾の日本時代初期に、マラリアで命を落とした北白川宮能久親王を祭るために台湾神宮が創建された。この時の台湾総督が、徳山市(現周南市)出身の陸軍大将・児玉源太郎だったことと関係がありそうだ。『臺灣石獅圖錄』には、台湾神宮の狛犬は1902(明治35)年に当時の陸軍高官が奉納したと記されている。この高官こそ、児玉源太郎だったのではないか。さらに、歴代の台湾総督19人のうち、5人が山口県出身者であるなど、山口県と台湾のつながりは非常に深い(拙著『台湾と山口をつなぐ旅』・西日本出版社刊を参照)。

かつての台湾神宮の参道(現在の台北市中山北路)に架かっていた「明治橋」(現・中山橋)には山口県産の徳山石が使われたとの記録もあり、インフラ建設のために台湾に渡った石工集団が、狛犬の製作にも携わった可能性も考えられる。

山口県産の徳山石で建設された「明治橋」(現・中山橋)(筆者提供)
山口県産の徳山石で建設された「明治橋」(現・中山橋)(筆者提供)

戦前に日本から海を越えて台湾に渡った狛犬。しかし戦後、狛犬はさまざまな運命をたどった。2017年、台北市士林区にある「円山水神社」跡の文化財に指定された狛犬が盗難に遭い、その後、日本の植民支配をののしる言葉がペンキで書かれるという事件があった。一方で、上述の彰化県和美(元・金刀比羅神社)の狛犬は、一度、南投県へ贈与されたが、和美の人々の声で2005年に再び地元に戻ってきた。

最近は日本全国各地で、狛犬愛好家も増え、狛犬にまつわる同人誌も発行されるようになった。

先述の藤井氏は、「狛犬さんを身近な彫刻アートとして楽しむことで、地域への愛着も湧き、普段の生活の中で新鮮な発見があります。また、身近な狛犬さんから台湾へと、海を越えて思いをはせてみることも楽しいです」と話してくれた。

世界の歴史的な脈絡の中にあり、人間の営みと常に関わり合い、見る人の思索を巡らすものが「美術」であり「アート」であると筆者は考える。つまりアートとは生き物で、それをめでる人・身近で世話をする人・それについて考える人々がいなければ、アートは生き続けることができない。狛犬は現代社会の中でアート作品として生き返った、そんな風にいえるかもしれない。

旧台湾神宮の狛犬(筆者撮影)
旧台湾神宮の狛犬(筆者撮影)

参考資料

  • 山口狛犬楽会(ウェブサイト)
  • 『臺灣石獅圖錄』(陳磅礡、2013年、猫頭鷹出版)

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