岩倉使節団:日本近代化の行方を探る世界一周の旅

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明治維新が実現し、新国家の建設が始まって間もない1871年。新政府のリーダーや官僚、留学生が「新国家の青写真」を求めて海を渡った。この「岩倉使節団」の旅には100人以上が参加し、当時の世界情勢を目の当たりにした。

この150年の日本の歩みを顧みて感じるのは、3つの大きな時期に分かれて成功と失敗を体験してきたということだ。明治期の約50年は、初期近代化を成功させ、日露戦争にも勝利を収め、第1次世界大戦の勝ち組となって世界の五大国に上り詰めた最も目覚ましい時期だ。しかし、次の段階ではその成功に奢(おご)り高ぶり、軍事国家へと傾斜して大敗北を喫し亡国寸前になってしまう。そして占領下の屈辱に喘(あえ)ぎながらも辛うじて国体を維持して独立すると、第3段階では奇跡的な産業発展を遂げ世界第2位の経済大国にまでなった。

そして今日、長期低迷を続けると言われながらも世界第3位の国内総生産(GDP)を維持し、国民は平和で豊かな生活を享受している。こうした繁栄の礎となったのは、明治維新以降の近代化の成功であるのは言うまでもない。この日本近代化の起点にあったものは何か。それは明治初期に敢行された岩倉使節団の世界大旅行ではなかったか。

革命直後に首謀者3人が国を留守にして海外を回覧

1871年7月、明治新政府は300もの藩を廃して全国を統一する「廃藩置県」という無血革命に成功する。それは古代より続く「自然の摂理」を神の道とする大祭司・天皇の威光によって成し遂げられた。260年も継続した将軍国家からの大変身であり、封建制の解体である。そのわずか4カ月後に、革命の首謀者たる岩倉具視が特命全権大使、木戸孝允と大久保利通が副使となって、1年半にも及ぶ米欧視察の旅に出るのだ。革命直後、その立役者が3人もそろって海外に出掛け、新しい国づくりの青写真を求めて回覧した国がどこにあっただろうか。

「岩倉大使欧米派遣」山口蓬春作(聖徳記念絵画館所蔵)。送られる者と送る者が描かれている。沖合に浮かぶのは一行を乗せる「アメリカ号」(聖徳記念絵画館所蔵)
「岩倉大使欧米派遣」山口蓬春作(聖徳記念絵画館所蔵)。送られる者と送る者が描かれている。沖合に浮かぶのは一行を乗せる「アメリカ号」(聖徳記念絵画館所蔵)

しかも、この使節団には伊藤博文をはじめ次世代を担うエリート50人と若き留学生50人も随行させたのである。そこには、幕末以来、福沢諭吉や渋沢栄一らが進めてきた近代化に関する予備的調査の集大成を行おうという意図が込められていた。新国家の執行部に思ったことを即座に実行に移せる行動力がなかったら、このようなことはなし得なかっただろう。

西洋文明の光と影を見聞

本隊と各省派遣組からなる使節団は、あらかじめ調査項目を定めた組織的な探索隊であった。彼らは12カ国、120の都市や村落を訪れ、政治・行政から軍事・外交、経済・産業、教育・宗教、交通・通信、文化・娯楽まで、西洋文明のあらゆる分野を横断しまるごと見聞する真摯(しんし)で懸命な調査を行った。そして各国で君主や宰相、大企業のトップや一流の学者に会って、西洋文明の実態を理解把握することに努めた。

1871年12月23日に横浜を出港して、73年9月13日に帰国
1871年12月23日に横浜を出港して、73年9月13日に帰国

彼らは西洋列強の繁栄ぶりのカラクリがどこにあるのかを冷静に観察した。そしてその繁栄が、技術の進歩や産業と貿易の織りなす隆盛、国民の精励恪勤(せいれいかっきん)によってもたらされたことを理解する。特に英国では全国各地を回り、鉄道や通信施設はもちろん炭坑や製鉄所から各種機械工場、ビールやビスケット工場までつぶさに視察し、産業革命の実態に迫った。そして歴史をさかのぼれば、そうした進歩がせいぜいこの40〜50年の間に達成されたことを知った。

西洋文明の光だけでなく影の部分も見た。当時繁栄の頂点にあったロンドンにも窮民の群居する貧民窟があり、実際にそこを訪れた。また、詐欺や強盗の横行も見聞した。文明文化の最先端をいく花の都パリでも、近時ドイツに破れパリコミューンの大惨劇があったことを知る。そしてベルリンでは、ビスマルクに招かれて「弱肉強食」の現実についての体験談を聞いた。また、帰国途上の船旅ではアラブ・アジア諸国に立ち寄り、粗末な娼婦宿やスマトラでの現地人の反乱、香港でのアヘン売買などを実際に見て、列強に支配された植民地の悲惨さを痛感した。

各国の政治制度の違いも現実に即して学んだ。米国は国土があまりに広い上に歴史が浅く国情が違い過ぎた。絶対王政下のロシアは最も遅れており、ベルギー、オランダ、スイスは小国に過ぎた。やはり英国をモデルにしながら当面はドイツ方式でゆくべきだというのが大方の感触だった。日本が世界における文明発展のどのような段階にあるかを理解し、数十年で追いつくのが可能なのは分かったが、「開化は一朝にしてならず」、着実に漸進主義でいくしかないことも悟った。

最も衝撃的な発見は、西洋文明の精神的支柱にキリスト教があることだった。それが人々の倫理を支え、勤勉の基になっていることに気付いた。日本にキリスト教に代わるものがあり得るのか、それが大きな課題となった。

帰国後の使節団主要メンバーが新政府の方向を決定

この旅は研修合宿のようなものだった。一行は毎日のように議論し学び合うことになり、そこで共有された体験や認識が、帰国後の現実に即した政策決定につながっていった。そうした政策のバックボーンとなったのは、幕末以来、先覚者の佐久間象山や横井小楠が唱えてきた「和魂洋才」の再確認であり、「富国強兵」と「殖産興業」の重要性の再認識であった。それこそが日本が独立国家として生き抜く条件であることを確認し合ったことの意義は大きい。

帰国後、使節団の主要メンバーは留守政府が「征韓論」に傾きつつあった流れを阻止し、内政の充実に注力することに舵(かじ)を切る。そして急進的な動きを避け、段階的に開化を進める方針を明確にし、大久保が中心となって専制的・開発独裁的な手法で新政府を主導していく。木戸、大久保亡き後は伊藤博文が主導権を握り、日本独自の憲法の制定に着手する。新憲法ではキリスト教に代わるものとして天皇を機軸に据えることを決める。その決定にはパリでモーリス・ブロック博士に天皇制を評価されたことや、ウイーンでローレンツ・フォン・シュタイン博士に日本の伝統に基づいた憲法にすべきだとアドバイスを受けたことが大きく影響していた。

日本の近代化をリードした使節団員

明治国家の第1の目標は「独立国家」の樹立であり、それを実現するための具体的な取り組みが幕末に結ばされた不平等条約の改正であった。そのためには、何よりも工業技術の進展や法律制度の整備など日本の近代化が必要だった。こうした変革を進める上で、使節団の団員や随行留学生は大久保や伊藤のリードの下で大いに活躍することになる。ただし西欧化を進める一方で、日本の伝統的な風俗習慣を維持することも大事であることを彼らは忘れていなかった。

殖産興業では炭鉱の近代化にまい進した団琢磨、金銀銅の鉱山開発を行った大島高任(たかとう)。外交では日英同盟成立時の英国大使・林董(ただす)、日露戦争の講和に向けて活躍する金子堅太郎、べルサイユ会議の全権・牧野伸顕(のぶあき)。内治では各地の県知事を歴任した安場保和(やすば・やすかず)、宮内大臣を歴任する田中光顕(みつあき)。教育では学制の実施と教育令の制定に当たった田中不二麿、日本法律学校(後の日本大学)創立の山田顕義(あきよし)、同志社の新島襄、女子英学塾(後の津田塾大学)の津田梅子。ジャーナリズムでは東京日日新聞の福地源一郎。医療では衛生思想を普及させた長與専齋(ながよ・せんさい)などだ。

そして国家の骨格ともいえる欽定(きんてい)憲法や教育勅語の制定では井上毅(こわし)が大活躍した。また、世界的にも珍しいこの旅を記録し、『米欧回覧実記』全5巻にまとめた久米邦武も忘れてはならない。同書は当時の日本人の知的水準と教養の高さを見事に証明するものであり、今日では英訳され西洋文明見聞録の金字塔となっている。

力による覇道には違和感を覚えた明治創業世代

明治初年、日本近代の創業世代は西洋文明の利便性に驚き、その摂取に努めた。が、強欲な利益追求思考にはどうしても馴染(なじ)めなかった。東洋の適欲自足的な価値観とは異なり、仁による王道ではなく力による覇道を求めるものであったからだ。しかし残念ながら、次世代になるとそうした西洋的思想に強く影響されてしまうことになる。そして軍事国家への道を突き進むわけだが、戦後はその猛省から平和憲法を受け入れ今日まで不戦を国是として堅持してきた。

日本は人類の大文明、5000年の歴史を有する中国文明とギリシャ・ローマに起源する西洋文明との双方を併せて摂取し、日本古来の自然尊重思想(神道)と融合させて「和の文明」を創り上げた。現在、世界各地で西欧化が進む中で、今なお天皇を敬い和合の精神を継承している。明治創業世代が真に求めたのもこうした在り方であり、それはグローバル化が進む21世紀における日本の存在価値に他ならない。

バナー写真=岩倉使節団の主要メンバー。左から木戸孝允(副使)、山口尚芳(副使)、岩倉具視(特命全権大使)、伊藤博文(副使)、大久保利通(副使)。サンフランシスコで撮影(山口県文書館所蔵)

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