松本清張生誕110年「巨匠最晩年の素顔」(上)

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今年、松本清張生誕110周年となるが、『砂の器』がテレビでリメイク放映され、横浜の文学館では特別展が開催されるなど、いまだに清張人気は衰えていない。最晩年の作家の素顔を当時の担当編集者が紹介する。その前編。

 横浜市にある「港の見える丘公園」のなかに、県立神奈川近代文学館はある。
 2019年3月16日より、同館で特別展「巨星・松本清張」が開催されている。会期は5月12日まで。
 松本清張氏は、1909(明治42)年12月21日に福岡県の小倉で生まれた。今年で生誕110周年を迎える。

 私は、一般よりひと足早く、開催前日に催された内覧会を訪ねた。
 高台にある公園から横浜港が一望できる、よく晴れた日だった。
 お目当ては、私が最後に担当した『週刊新潮』連載の作品、『甲州霊嶽党』(こうしゅうれいがくとう)の絶筆原稿である。
 巨匠は、92(平成4)年4月20日、脳出血で倒れ、東京女子医大病院に運ばれた。
 仕事場の机の上には、愛用のモンブランの万年筆とともに、連載20回目となる『甲州霊嶽党』の原稿が、書きかけのまま残されていた。

 脳出血の手術は成功した。しかし、このとき肝臓ガンがみつかり、そのまま入院先で8月4日に亡くなった。享年82。
 遺稿は、同年9月3日の週刊新潮に掲載された。数日前に、私はその原稿をご家族から受け取っていた。絶筆は、400字詰め原稿用紙で30枚である。
 手にしたときの、震える感覚はいまだに忘れもしない。

 それから数年を経て、私はその原稿を、北九州市小倉にある北九州市立松本清張記念館で、展示されているガラス越しに眺めていた。
 そして三たび、30代前半の頃に手にした絶筆原稿を目にする機会を得たわけである。

 よく、「清張さんってどういう人だったのですか」と聞かれる。ご年配だけでなく、若い人からも、である。それだけ世代を超えて根強い人気があるということだ。
 先生がお亡くなりになるまで、各出版社、数々の名編集者が担当されている。私にこの偉大な作家を語る資格があるとはとても思えないが、たまたま最晩年を担当させていただいたというご縁から、ささやかな思い出話をご紹介したいと思う。

特別展「巨星・松本清張」のポスター 提供:県立神奈川近代文学館
特別展「巨星・松本清張」のポスター 提供:県立神奈川近代文学館

昔の作家には威厳があった

「松本だけど……」
 週刊新潮編集部に、電話がかかってくる。どこの松本さんかは名乗らない。
 しわがれた、その独特な声音に、編集部員ならだれもが気が付くはずだ。
 ところが、たまに事情に疎い新米が、
「どちらの?」
 と聞き返そうものなら大変なことになる。
「あなたは私のことを知らないんですか」
 途端に先生は不機嫌になる。
 松本清張といえば、同誌の連載小説では常連の執筆者で、数々の話題作を世に送り出している。「松本」とくれば「清張さん」が当然なのだ。
 それだけ、昔の作家には威厳があった。 

 1956(昭和31)年2月に創刊された週刊新潮に、先生の連載小説が初登場したのは60(昭和35)年1月だった。
 のちに映画化、ドラマ化され、大ベストセラーになった『わるいやつら』である。その2年後に『けものみち』が連載され、絶筆となった『甲州霊嶽党』にいたるまでに12作品が掲載されている。
 なかでも、78(昭和53)年から2年かけて連載された『黒革の手帖』は、いまでも何度となく映画テレビでリメイクされる人気作品なので、若い世代でもご存じのかたは多いだろう。

 私が連載を担当していたのは、83(昭和58)年9月から連載された『聖獣配列』、あいだに『赤い氷河―ゴモラに死をー』をはさんで92(平成4)年1月から5月までの『甲州霊嶽党』までの3作品。当初は先輩編集者のアシスタントとして、途中からメインの担当者になった。

 このとき、私は入社2年目の24歳。先生はすでに74歳だった。
 最初の印象でいえば、こわい先生だった。それも無理のないことだろう。作家はすでに名声をほしいままにした巨匠で、私とは祖父と孫ほどの年の差があるのだ。
 目の前の松本清張氏は、立ちはだかるように聳える山脈に見えた。

「作家には休みがない」

 連載小説が掲載された『週刊新潮』は、毎週木曜日が発売日で、原則、水曜と木曜が休みとなる。しかし先生は、必要があれば毎日、昼夜を問わず編集部に電話をかけてきて、担当者を呼び出した。
 なぜなら、「作家には休みがない」というのがご本人から聞かされた信条で、文字通り不眠不休で精力的に執筆を続けている。その習慣は、病で倒れるまで続くのだが、当然、担当者はいつなんどきでも作家の要望に応えるために待機しているべきなのだ。だから作家は、何かを思いつくと、いつでも電話をかけてきた。

 電話を受けた編集部員は、ただちに担当者と連絡を取らなければならない。「休んでいます」とは、けして口にしてはならない。「外出していますので、折り返し、お電話させます」と答えておけば、機嫌をそこねることはないのである。

 だから、当時の私は、いつもポケベルを持ち歩いていた。携帯電話はまだない時代である。編集部にいればすぐに対応できるし、取材で出払っているときや休みの日には、ずいぶんポケベルに助けられた。
 そして、先生から連絡があれば、急いで東京都杉並区にあるご自宅に駆けつけた。

「面白いか」と破顔一笑

 井の頭線の浜田山駅を降り、線路に沿った小道を砂利を踏んで歩いていく。
 道すがら、今日のご機嫌はいかがなものか、と思案する。多くの編集者が、松本邸の門を緊張してくぐったに違いない。
 ことに、原稿をいただく日には、緊張感はいや増した。
 応接に通され、待っている間、鼓動は高まるばかりだった。

 先生は、徹夜で原稿を書くことが多かった。
 午前にお訪ねしたときの光景はこんな様子だ。
 ご本人が、原稿を手にして応接にあらわれる。いましがた書き終えたかのように、髪はボサボサ、着物の裾ははだけたまま、ソファーにドッカと坐る。
 はいよ、とばかりに原稿を渡し、目をつむって紙巻煙草をくゆらせる。息が荒い。こちらが指が焦げるのではないかと心配するくらい、フィルターぎりぎりまで煙草を吸う。灰が膝に落ちるのもかまわない。見ると、着物には焼け焦げた小さな穴がいくつも空いている。

 緊張する理由はこうだ。
 先生が煙草を吸っている間に、渡された原稿を読む。これが真剣勝負の場なのである。
 作家は、目の前で原稿を読ませ、「どうですか」と意見を聞く。
 編集者は最初の読者である。ここで、ありきたりの感想しか言えないと、
「そんなことでは編集者失格です」
 と叱られた。
 内容が面白ければ、その理由をきちんと述べなければならない。褒めるだけでもまた叱られる。それは、先生が常に読者の反応を意識して、作品を生み出していたからにほかならない。第一読者である編集者の意見を聞き、そうか、と納得すれば、躊躇なく取り入れた。
 作家の眼には、私は孫ほど若く、頼りなげに映ったにちがいない。しかし、それでも情け容赦はない。
 あるとき、筆記用具を忘れ、指示された内容をメモすることができず、恐る恐る、貸してはいただけませんか、とお願いしたところ、
「なに! 武士が刀を忘れるようなものだ」
 と一喝された。ことほどかように真剣に怒ってくれる大人は、いまの世の中から消えつつあるだろう。そこには若手の編集者を育てようとする愛情がある。 

 物語の文章のなかには、巨匠ならではの仕掛けがちりばめられている。
 原稿を読み、稀に、的確な批評ができたとき、老大家はわが意を得たりとばかり、「そうか、わかるか」「面白いか」と破顔一笑される。まるで子供がいたずらを見つけられたかのように、誠に無邪気な笑顔を浮かべるのであった。
 

「動機を書きたい」

 松本清張氏といえば、緻密な取材に裏打ちされた、ノンフィクション顔負けの小説が多い。
「清張さんは取材スタッフを抱えていたのですか?」
 とも、よく聞かれる。
 最盛期の頃のことは承知していない。少なくとも、私が担当していた期間についていえば、ご本人自ら資料を集め、取材をしていた。スタッフといえば、担当編集者がそれで、指示を受けて資料を集め、必要に応じて取材をしていた。
 ときには、他誌の連載でも取材を頼まれることがある。光栄なことだった。

 先生は、常々、「動機を書きたい」と言っていた。犯罪にいたるさまざまな「動機」、それを考え、書いていくのが「面白い」。トリックで最後、辻褄をあわせるのは「つまらない」とも。
「動機」に重きを置いているから、人間の業というものが深く描かれ、多くの読者の共感を呼ぶのであろう。

<下>に続く)

バナー写真:1971年、61歳の清張氏(時事)

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