李登輝が敬礼した男、陳俊郎氏の破天荒人生

歴史

大洞 敦史 【Profile】

李登輝氏に敬礼された陳俊郎さん

中興大学卒業後、陳さんは台湾省農林庁に就職する。翌年には米国帰りの李登輝氏も同庁に就職した。

「私は朝のラジオ体操の指導員をやらされていてね。自由参加なんだが、李登輝さんは真面目な人だから毎朝必ず一番前に来て、台の上にいる私に“よっ、指導員!”と言って、びしっと敬礼してくれるんだ。私のほうはいい加減に返礼したりしていたよ。」

陳さんと李登輝氏は共に農復会に所属していた。この組織は正式名称を「中国農村復興連合会」という米国と中華民国の連合機構で、米国の援助の下に台湾の農産業を推進する事を目的にしていた。専門知識を持った人材は、米国留学もできた。

「本来であればとっくに私に声が掛かっていたはずだけど、偉い役職に就いているのは皆中国大陸から来た外省人。私はよく反抗的な態度を取っていたものだから目を付けられていて、9年勤めても昇進さえできなかった。ある日しびれを切らして、上司に直談判に行ったんだ。2羽のニワトリを手土産に。相手は東京帝大卒の、台湾人に割りと同情的な人で、後日通達が来てアメリカに渡れたんだ。1961年だった。サンフランシスコの空港に着いて、タラップから地面に降りた瞬間、私は“ I’m Free !! ”と叫んだ。長年いじめられてきたが、とうとう目標を達成したんだ。」

それから陳さんは1年間の留学と、帰国後に義務付けられていた3年間の勤務を経て、辞表を提出。植物に関する豊富な知識を生かし、医師である兄の出資の下に台北郊外の烏来に山を買って電気も水もない小屋に住んだ。ヨシノスギ、リュウキュウマツなどの植林を行った。

烏来で生活していた頃に住んでいた小屋(筆者提供)
烏来で生活していた頃に住んでいた小屋(筆者提供)

「誠文堂新光社や家の光協会が発行していた園芸誌に小さな広告を出したら、日本の植物愛好家から電話で注文がくるようになってね。3000メートル級の山を歩き回り、時には崖をよじ登ったりして、一葉蘭やシャクナゲといった高山植物の球根を集めました」

鹿児島県指宿は現在、アレカヤシというヤシ科観葉植物の日本最大の産地になっているが、これも元々は陳さんが台湾の製糖工場の敷地に生えていたものの種を送ったのが始まりだという。自由と自然を愛する陳さんの気性にぴったりの仕事だった。ところが73年に希少な野生動植物の国際取引に規制をかけるワシントン条約が採択され、あっけなく幕切れとなってしまう。

ある日陳さんは夕日が差し込む部屋で、台湾の立体地図を手にし、中央山脈の峰を指でなぞりながら、ぼくに言った。

「私は一途に山、造林、植物、こういう道を歩こうとしてきた。でも今思うと、罪な事をしたとも思うよ。台湾の珍しい植物をお金に換えとったんだから。」

台湾の立体地図を手に、中央山脈を指でなぞる陳俊郎さん(筆者提供)
台湾の立体地図を手に、中央山脈を指でなぞる陳俊郎さん(筆者提供)

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1984年東京生まれ、明治大学理工学研究科修士課程修了。2012年台湾台南市へ移住、そば店「洞蕎麦」を5年間経営。現在「鶴恩翻訳社」代表。著書『台湾環島南風のスケッチ』『遊步台南』、共著『旅する台湾 屏東』、翻訳書『フォルモサに吹く風』『君の心に刻んだ名前』『台湾和製マジョリカタイルの記憶』等。

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