李登輝が敬礼した男、陳俊郎氏の破天荒人生

歴史

大洞 敦史 【Profile】

戦中・戦後と命の危機に直面する

ある日陳さんと台南名物の牛肉スープの店に行った時のこと。「燙青菜」(青物野菜をさっと湯がいたもの)を注文すると、サツマイモの葉っぱが出てきた。ホウレンソウを長めにゆでたような、柔らかくて少しどろっとした食感だ。台湾で日常的に食卓に上がる野菜の一つだが、以前は豚の飼料にされていたという。箸で葉をつまみながら陳さんは言う。

「今思うとね、あの頃、どうしてこれを食べようと考えなかったのか。」

台南二中在学中のある日曜日、食べ物を求めて畑の中を歩いていると突然、1機のグラマン戦闘機が陳さんめがけて機関銃を撃ってきた。稲の収獲が済んだばかりで、上空からは丸裸同然だ。わら束の山を見つけ、グラマンが一度遠ざかった隙に素早くそこにもぐり込み、無宗教の陳さんもこの時ばかりは地元であつく信仰されている媽祖に向けて一心に祈った。幸いグラマンは去っていった。

空襲のため卒業式が行われないまま陳さんは北港へ帰り、小さな弟たちと北港渓という川でシジミを採ったり、瓶と棒で米のもみ殻を取り除いたりしながら飢えをしのいだ。確かにそんな時代にサツマイモの葉が食べられるということがわかっていたら、どれだけの人が飢えから救われただろう。

1946年に中華民国台南県政府の戸政課で、台湾に残留している日本人を引き揚げさせる業務に携わったが、物価がうなぎ上りの一方で給料が出なかったことから、辞職して台中の中興大学農学部に進学する。休暇前に作文の宿題が出されたが、中国語の文章がうまく書けなかったため、新聞に載っていた檳榔樹に関するコラムをそのまま書き写して提出した。放課後教員室に呼び出されると、自分と同じ文章を書き写した別の学生が宿題を出した教師からひどく叱られていた。

2年生の時に二二八事件が発生。陳さんは人民武装部隊に加わり、5人の学生と共に学校の倉庫に隠してあった銃を持ち出し、日本兵の軍服を身に着けて、台中公園にあった放送局を占拠した。ところが偶然にも兄の結婚式が数日後に控えており、家族から戻ってくるように言われ、銃を置いて北港に帰った。ほどなくして部隊は鎮圧され、若者たちが国民党に捕まって殺されているといううわさを伝え聞き、しばらく床下に隠れて暮らした。2カ月ほどして大学からおとがめなしの布告があり、無事に復学した。

ちなみに、陳さんの兄の陳英郎氏は中距離走の選手で、中華民国代表として戦後初めて48年のロンドンオリンピックに出場した「台湾のいだてん」ともいえる人物だ。64年の東京オリンピック開催時は台北で聖火ランナーを務めた。

ロンドンオリンピックに出場した陳俊郎さんの兄・英郎さん(筆者提供)
ロンドンオリンピックに出場した陳俊郎さんの兄・英郎さん(筆者提供)

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大洞 敦史DAIDO Atsushi経歴・執筆一覧を見る

1984年東京生まれ、明治大学理工学研究科修士課程修了。2012年台湾台南市へ移住、そば店「洞蕎麦」を5年間経営。現在「鶴恩翻訳社」代表。著書『台湾環島南風のスケッチ』『遊步台南』、共著『旅する台湾 屏東』、翻訳書『フォルモサに吹く風』『君の心に刻んだ名前』『台湾和製マジョリカタイルの記憶』等。

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