李登輝が敬礼した男、陳俊郎氏の破天荒人生

歴史

大洞 敦史 【Profile】

戦争のさなかにあった中学時代

陳俊郎さんは日本統治期半ばの1927年(昭和2)12月、媽祖廟で知られる嘉義の北港で生まれた。父の陳維謀氏は台湾商工銀行(現・第一銀行)の支店長代理。家は日本人集落の中にあり、陳さんは幼少期から日常的に日本人と接していた。1930年代は、台湾が日本統治期を通して最も栄えた時期にあたる。台南では八田與一の指揮の下、烏山頭ダムと嘉南大圳という大規模な水利工事が完了したことで農業が飛躍的に発展し、林百貨店が開幕、エレベーターに乗り4階のカフェでコーヒーを飲むことがモダンの象徴となった。

しかしやがて戦争が始まる。1940年から1945年3月まで陳さんは台南州立台南第二中学校(略称台南二中)に通った。太平洋戦争とほぼ時期を一にしている。一度陳さんのご自宅を訪問した時、箱に収められた10の文集を読ませてもらった。『竹園慕情 前州立台南二中第19期生文集』という書名で、創刊号は1997年の発行、2007年発行の第10刊が最終刊となっている。書名は当時学校周辺が「竹園が丘」と呼ばれていたことに由来する。今でもキャンパスには美しい竹が見られる。

陳俊郎さんら台南二中卒業生による文集『竹園慕情』(筆者提供)
陳俊郎さんら台南二中卒業生による文集『竹園慕情』(筆者提供)

陳さんが編集とデザインを手がけたそうだ。今はもうこの一セットしか残っていないという。読んでみると、ぼくが8年も愛着を抱いて暮らすこの台南で、自分が生まれるずっと前に展開された悲喜こもごもの物語の重みが、胸に迫ってくるのだった。

例えば戦後沖縄の政治に大きな足跡を残した屋良朝苗氏が当時台南二中で理化の教師をしていて、授業と実験は大変面白いが、学生が習ったことを忘れると激しく叱るため、皆から「琉球ハブ」というあだ名をつけられていたという話。授業の時間に詩人・与謝野晶子の詩「君死にたまうことなかれ」を朗読した国語の先生の話。隣の台南工業専門学校(現・国立成功大学)の日本人学生たちと集団でけんかをした話。卒業式を間近に控えた1945年3月1日と3月10日にB29の大空襲があり、半ば廃墟と化した台南市街地から徹夜で疎開をした話など。

台南二中は今も昔も理数系に強い子供が入りやすく、戦後は医者、弁護士、学者、役人になった者が多い。海外で台湾独立運動を指導した人物もここの卒業生であることが少なくない。論理的思考を重んじる校風で、皇民化政策のさなかにあっても、台湾人学生はある程度の批判精神を保持していたようだ。

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1984年東京生まれ、明治大学理工学研究科修士課程修了。2012年台湾台南市へ移住、そば店「洞蕎麦」を5年間経営。現在「鶴恩翻訳社」代表。著書『台湾環島南風のスケッチ』『遊步台南』、共著『旅する台湾 屏東』、翻訳書『フォルモサに吹く風』『君の心に刻んだ名前』『台湾和製マジョリカタイルの記憶』等。

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