虹がはためくのはいつか——日本と台湾のLGBT問題を考える

社会 ジェンダー・性

李 琴峰 【Profile】

ようやく戦い出した日本

このように、幾人も命を落としてきた同性婚の道程は、戦いそのものにほかならない。しかし平和の美しい国・日本では、戦いを忌避する傾向があるように思われる。 

印象深いエピソードがある。大学院時代に、とあるセクシュアル・マイノリティーサークルの雑誌で、台湾の同性婚の歴史を紹介する記事を執筆した。一連の活動と訴訟を「戦い」「戦火」と表現したが、校閲担当のサークル員から「表現が過激」との指摘を受けた。なるほどこれくらいで過激なのか、と膝を打ったのである。

60年代後半、急進的な全共闘が敗北したことが関係しているかどうか分からないが、日本のセクシュアル・マイノリティー運動は台湾と比べてかなり保守的に見える。

台湾がまだ日本統治時代だった頃、日本では既に吉屋信子『屋根裏の二處女』など同性愛者が登場する小説が発表された。台北のゲイたちが新公園を彷徨っていた時、東京には既にゲイ雑誌があり、ゲイタウンがあった。東京で初めてゲイ・パレードが開催されたのは1994年で、台湾より10年近く早かった。敬愛する松浦理英子や中山可穂が文壇に登場したのも、台湾のセクシュアル・マイノリティー文学ブームより早かった。しかし、日本のそうした文化は結局運動として開花しなかったし、文学も常に政治と距離を置いてきたように思われる。LGBTという言葉が一般に認知され始めるのは2012年以降、経済誌が取り上げるまで待たなければならなかった。

その原因はもちろん複合的である。日本は台湾のような独裁政治を経験しなかったから、抑圧に対する強い反動もなかっただろう。隣国に併呑される危険性に常に晒され、そのため若者が政治参加に積極的であるという風土がないのも原因だろう。同性婚の代替手段として養子縁組が可能であることも大きいかもしれない。自己責任論が蔓(まん)延していることや、和を貴び政治的な話題を忌み嫌う「国民性」も関係しているかもしれない。いずれにしても、これまで日本は長らく台湾のお手本であり続けてきたが、こと同性婚、人権問題において、これから日本の活動家は台湾から学ぶことがたくさんありそうだ。

喜ばしいことに、徐々にではあるが日本も少しずつ動き出してきた。15年に渋谷区から始まったパートナーシップ制度は各地で広がっており、18年、「自治体にパートナーシップ制度を求める会」は27自治体に対してパートナーシップ制度の導入を一斉に請願した。そして19年2月、同性婚が認められないことの違憲性を問う訴訟は各地で一斉提訴された。その行方を見守っていたい。

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李 琴峰LI Kotomi経歴・執筆一覧を見る

日中二言語作家、翻訳家。1989年台湾生まれ。2013年来日。2017年、初めて日本語で書いた小説『独り舞』で群像新人文学賞優秀作を受賞し、作家デビュー。2019年、『五つ数えれば三日月が』で芥川龍之介賞と野間文芸新人賞のダブル候補となる。2021年、『ポラリスが降り注ぐ夜』で芸術選奨文部科学大臣新人賞を受賞。『彼岸花が咲く島』が芥川賞を受賞。他の著書に『星月夜(ほしつきよる)』『生を祝う』、訳書『向日性植物』。
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