虹がはためくのはいつか——日本と台湾のLGBT問題を考える

社会 ジェンダー・性

李 琴峰 【Profile】

同性婚の実現に至るまで

90年代から、戒厳令解除ののち政治が民主化され、それまで抑えつけられていた異質的な声が噴出し始めた。中でも顕著だったのは女性権利向上運動と、セクシュアル・マイノリティ人権運動だった。それまで蔑視されてきたことへの反動か、民主化した台湾では人権問題が重要課題として取り組まれるようになった。1993年、台湾大学ではゲイサークルが成立し、翌年、レズビアンサークルも結成された。2000年以降には就職における平等を保障する「性別工作平等法」、教育における平等を保障する「性別平等教育法」が次々と成立。03年、第1回台湾プライドパレード開催。09年、ジェンダー・メインストリーミング実践のため、行政院の下で「性別平等会」が設置された。 

同性婚の脈絡において、最も早く動き出した人物は、後に台湾同性婚裁判の先駆けと呼ばれる祈家威氏である。彼は1986年に裁判所で同性の恋人との公証結婚を求めたが、拒否された。2000年、同性婚ができない現状について司法院に対し違憲訴訟を提起したが、「どこに違憲性があるか具体的に指摘されていない」として不受理となった。民進党政権時代、01年と06年それぞれ同性婚を法律に盛り込む動きがあったが、立法には至らなかった。

11年、ゲイカップル陳敬学氏と高治瑋氏は役所に婚姻届を出し、不受理となった。法定のプロセスを経て12年年末に憲法裁判となったが、13年1月に両氏は訴訟を撤回した。両氏のもとに殺害予告が届いたそうだ。同年、祈家威氏は再び役所に婚姻届を出して不受理になり、15年に大法官による憲法解釈を要請した。前年のひまわり学生運動と、翌年の政権交代で与党となった民進党の後押しも加勢し、17年5月24日、同性婚を認めない民法は違憲であり、2年以内に同性婚を法制化しなくてはならないという画期的な判決(「釈字第748号」)が下されたのである。18年11月24日付の国民投票で同性婚支持派が惨敗したが、大法官の憲法解釈は覆されず、19年5月24日、同性婚が実現する見通しである。

アジア初となる快挙ではあるが、前述のようにその道のりは決して平坦(たん)ではない。その過程で命を落とした人も数知れずいた。1994年、恋人同士と思われる台北第一女子高校の学生・林青慧氏と石済雅氏が、「私達はこの社会の本質に適合しない」との遺書を残して心中した。2000年、振る舞いが女っぽいことで同級生からいじめを受けていた中学生・葉永鋕氏が、学校のトイレで変死した。16年、パートナーに先立たれた元台湾大学教授・畢安生氏は、パートナーとは法的に赤の他人だったためその最期も看取れず、遺産も相続できず、絶望の果てに自宅で飛び降り自殺を遂げた。これらはほんの氷山の一角で、名前のない自殺者は他にも多数いただろう。18年の国民投票ののち、自殺者が続出したと聞くが、同性婚実現の背後には血塗られた歴史があることを忘れてはならない。

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日中二言語作家、翻訳家。1989年台湾生まれ。2013年来日。2017年、初めて日本語で書いた小説『独り舞』で群像新人文学賞優秀作を受賞し、作家デビュー。2019年、『五つ数えれば三日月が』で芥川龍之介賞と野間文芸新人賞のダブル候補となる。2021年、『ポラリスが降り注ぐ夜』で芸術選奨文部科学大臣新人賞を受賞。『彼岸花が咲く島』が芥川賞を受賞。他の著書に『星月夜(ほしつきよる)』『生を祝う』、訳書『向日性植物』。
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