武士道:日本人の精神を支える倫理的な礎

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侍の気構えと行動を規定した武士道。戦闘なき徳川時代になって精神的な徳義へと変容し、やがて庶民の生活経済倫理にまで影響を与えていく。

武士道を論じた書物として新渡戸稲造の『武士道』が有名である。1899年にニューヨークで英文のBushido:The Soul of Japanが出版され、1908年に桜井彦一郎による日本語訳が出された。38年に矢内原忠雄訳で岩波文庫に収められ、版を重ねつつ武士道論のスタンダードをなしてきた。他方、武士道を西洋の騎士道にも匹敵する道徳高潔な精神と論じる同書の記述は、近代明治という時代のナショナリズムが作り上げた虚像に過ぎないといった批判的論調も目立ち、その評価は分かれている。ここでは武士が実際に活動していた時代に、当時の人々が何を指して「武士道」と呼び、その本質は何かを歴史実証主義の立場から考えてみる。

戦場で勇猛果敢に戦う行動規範

「武士道」という言葉は中世社会には見られない。中世では武士の行為規範に対して「弓馬の道」、「弓矢とる身のならい」などの語が用いられていた。「武士道」という言葉の出現例の初期に属するのが、武田流兵学の聖典として知られた『甲陽軍鑑』である。全20巻から成る同書には「武士道」の語が30回以上も頻出し、また同書が兵学の教科書として武士の世界で広く読み継がれたことから、「武士道」という表現の普及に大きな影響力を有していたと思われる。

ただしその成立時期については、武田信玄の家臣・高坂弾正昌信(こうさかだんじょうまさのぶ)が1575(天正3)年の長篠合戦の敗北を受けて書き始めたとする高坂自撰(せん)説と、武田流軍学者・小幡勘兵衛景憲(おばたかんひょうえかげのり)の手によって1615(元和元)年頃にまとめられた編纂(さん)本とする説とが並立している。今日では高坂自撰説が優勢のようである。

『甲陽軍鑑』において武士道が語られるのは、専ら戦場における武功、勇猛果敢な働きと不可分である。例えば、「人つかひ給ふ様あしく御座候と先日も大形申し上げるごとく(中略)武士道の役にたつ者をば、米銭の奉行・材木奉行或(あるい)は山林の奉行などになされ」(同書、品三十)といった表現。武士道に役立つ人間を行財政の事務的役職などにつけるのは人材の損失という批判であり、武士道とは端的に戦陣における「槍(やり)働き(活躍ぶり)」を指している。

しかしながら武士道のその後の展開は、外面的な武勇よりも内面的な強さを重視し、人としての徳義を涵養することを主意とする方向に進んでいく。

天下太平がもたらした武士道の変質

『諸家評定(しょけのひょうじょう)』は兵学者・小笠原昨雲(さくうん)が1621(元和7)年に編纂した20巻の軍学書。1658(明暦4)年に20冊で刊行されている。同書においても「武士道」という言葉が用いられているが、そこでは褒賞の多さや勢力の強大さに靡(なび)くことなく、自己の信念を貫きとおす内面的な志操を「意地」の名で呼び、その強固さこそが武士道の本質であるとする。

こうした傾向は、1642(寛永19)年に出版された『可笑記(かしょうき)』の武士道論で一層顕著になる。同書は5巻からなる随筆風の教訓書で、作者は山形藩最上家の元家臣・斎藤親盛(ちかもり)と見られている。同書には「武士道」という言葉がしばしば登場しており、特に次の記述は武士自身による武士道の定義として貴重である。

「武士道の吟味と云(いう)は、嘘(うそ)をつかず、軽薄をせず、佞人(ねいじん、こびへつらう人)ならず、表裏を言はず、胴欲ならず、不礼ならず、物毎自慢せず、驕(おご)らず、人を譏(そし)らず、不奉公(ぶほうこう、主人に忠実でないこと)ならず、朋輩(ほうばい)の中よく、大かたの事をば気にかけず、互ひに念比(ねんごろ)にして人を取たて、慈悲ふかく、義理つよきを肝要と心得べし、命をしまぬ計(ばかり)をよき侍とはいはず」(同書、巻五)

このような武士道の変質ないし深化の背景には、徳川社会の持続的平和という状態がある。内戦もなければ対外戦争もない平和状態が200年以上も続くというのは、世界史的に見ても稀有(けう)なことであろう。武士道は、勇猛一辺倒から次第に徳義論的な性格を深めるものへと進化していったのである。

戦(いくさ)のない時代が長く続く中で、武士はその存在意義を問われることになる。彼らは戦士としてだけではなく、領域を統治する公共的な行政組織(幕府・藩)の役人として活動することによって、新たな社会的役割を見いだしていく。すなわち、治安・警察の機能、法律の作成や裁判制度の整備である。これらは武士的な役柄であるが、それにとどまらず、道路や橋梁(きょうりょう)の修復といった交通インフラの整備、治水灌漑(かんがい)、新田開発、耕地改良、防火防災、災害復旧、殖産興業、病院・薬事などの分野も担っていく。西欧社会における騎士にはこうした職務が求められなかったことが、騎士道と武士道の大きな違いとも言えよう。

『葉隠(はがくれ)』が与えた大いなる誤解

武士道の書物と言えば、佐賀藩鍋島家の元家臣・山本常朝(つねとも)が口述した『葉隠(はがくれ)』が著名だ。1716(享保元)年に成立した同書は、「武士道というは死ぬことと見つけたり」の一句でよく知られており、「武士道とは死の教えである」といった誤解を与えることになった。しかしこの語句の意味するところは死の強要ではない。死の覚悟を不断に持することによって、生死を超えた「自由」の境地に到達し、それによって「武士としての職分を落ち度なく全うできる」の意である。

同書はまた「奉公の至極の忠節は、主に諫言(かんげん)して国家を治むる事」(聞書第二)とも述べて、主君が誤った方向に進んでいるならば、主君を諫(いさ)めて藩と御家が立派に治まるよう奮闘努力することこそ武士として最高の忠義の在り方としている。ここでも武士道は人間としての陶冶(とうや)、修養を重んじるものとなっている。

庶民に浸透した武士道精神

次に重要なのは、武士道の精神は武士階級にとどまるものではなく、広く庶民の世界へも浸透することによって、国民道徳としての性格を獲得していくという事実である。それには前掲の『可笑記』という本が大きな役割を果たしていた。

『可笑記』は武士の執筆になるが、その読者は武士ではなく、むしろ一般の庶民が想定されている。仮名文字で書かれているので、寺子屋などで一通りの読み書きの学習を経た人間ならば、誰でも読むことができた。また、成人前の子供や女性にも読まれていたようだ。そのため『可笑記』は庶民の間で好評を博し、版を重ねつつ後々まで読み継がれていった。

17世紀の終わり頃、『古今武士道絵づくし』という題名をもった本が出版されていた。それは浮世絵師の元祖として知られる菱川師宣が著した絵本で、通俗的な武士英雄物語を絵で描き、簡単な説明を付しただけのものである。子供向けの絵本でもある。その題名に「武士道」という言葉が用いられていたことは、武士道の観念が庶民の世界まで広く行き渡っていたことを示す証拠と言ってよいだろう。

そして『可笑記』が説いていた武士道の教え、すなわち「嘘をつかない」、「卑怯(ひきょう)なまねはしない」、「最後まで誠実に行動する」という倫理観念は一般庶民の生き方にも大きな影響を与え、特に商取引を中心とする経済活動において信用を何よりも重んじるという気風を育むこととなった。

武士道が日本の社会と人々に及ぼした影響力は、極めて広範、多岐にわたるものであった。

バナー写真:鎌倉時代末期から南北朝時代にかけての武将・菊池武光の騎馬像(photolibrary)

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