台湾を変えた日本人シリーズ:台湾医学界の父・堀内次雄

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古川 勝三 【Profile】

台湾各地に病院を開設し、医学学校では医師を養成

台湾総督府は97年4月には台湾人子弟のための医師養成を目的に、台湾病院内に医学講習所を設けた。翌98年3月に第四代総督・児玉源太郎と民政局長に後藤が着任すると、台湾総督府台北医院と改称した。当初は台北の他に、新竹、台中、嘉義、台南、鳳山、宜蘭、台東、澎湖島の9カ所に病院を開設し、後に基隆、打狗(高雄)、阿猴(屏東)、花蓮港にも増設した。

医学教育の開始は99年設立の台湾総督府医学校で、1902年には台湾医学会が成立し、学会誌が創刊されるようになった。その後、19年には台湾総督府医学専門学校、22年に台湾総督府台北医学専門学校と改称された。また、28年に設立された台北帝国大学に医学部は35年に開設され、38年に帝大の付属病院に改組という過程をたどる。

1899年に設立された台湾医学校の初代校長には、山口秀高が就任した。就学年限は予科1年の後に本科4年があり、5年で卒業することになっていた。当初は、台湾人のみを対象とし第1期生を募集した。高木友枝が第二代校長に就任した1902年の卒業生は3人だったが、年ごとに増え、第5期の卒業生は23人となった。助教授になっていた堀内は06年に総督府により細菌学研究のためにドイツへ派遣され、さらに12年には東京帝大から医学博士号を授与されている。その3年後には台湾電力社長に転出した高木の後を継いで第三代校長になり、台北市東門町6番地に開設していた日本赤十字社台湾支部病院の医院長も兼務した。

着任して4年目の19年には日本人の入学も認められたため、入学希望者が急増した。定員40人に対し、の受験生は600人で競争率15倍の難関校となった。その台湾総督府医学校で堀内は、21年間にわたり校長として多くの台湾人医学生を指導し、台湾の医学界を育てていった。卒業生は、日本が統治していた南洋の島々に赴任し、現地住民の医療に尽力している。

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古川 勝三FURUKAWA Katsumi経歴・執筆一覧を見る

1944年愛媛県宇和島市生まれ。中学校教諭として教職の道をあゆみ、1980年文部省海外派遣教師として、台湾高雄日本人学校で3年間勤務。「台湾の歩んだ道 -歴史と原住民族-」「台湾を愛した日本人 八田與一の生涯」「日本人に知ってほしい『台湾の歴史』」「台湾を愛した日本人Ⅱ」KANO野球部名監督近藤兵太郎の生涯」などの著書がある。現在、日台友好のために全国で講演活動をするかたわら「台湾を愛した日本人Ⅲ」で磯永吉について執筆している。

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