台湾を変えた日本人シリーズ:台湾医学界の父・堀内次雄

文化 歴史

古川 勝三 【Profile】

まん延するマラリアで母も失う

台湾はかつて、風土病がまん延している島という意味で、日本内地で「瘴癘(しょうれい)の島」と呼ばれることがあった。

統治する上で、台湾総督府を悩ます問題が四つあった。一つ目は清朝も悩まされた武装集団の抵抗であり、二つ目は誰からの支配も認めない先住民族の存在だ。三つ目はアヘン吸飲の悪習、最後はマラリア、コレラ、ペスト、アメーバー赤痢、ツツガムシ病などの風土病だった。特に病気は目に見えない敵であるが故に厄介であり、日本から赴任する官僚や役人も、渡台を嫌った。

第三代総督乃木希典は、家族同伴での赴任を避けようとするが母親に「上司が家族を同伴しなくて、部下に示しがつくか」と諭され同伴したとされる。ところが乃木総督の心配した通り、赴任してまもなくその母親をマラリアで亡くしてしまう。総督の家族でも逃れられないほど猛威を振るっていたから、一般庶民はなおさら悲惨だった。

清朝末期の台湾の平均寿命は30歳代だと推測されるほど低く、清潔な飲み水が得られる井戸は、有力者や金持ちに独占されていた。総督府が井戸の独占を禁止したものの、庶民に清潔な飲料水が行き渡る状態ではなかった。

1895年6月17日に台湾総督府により台北において「始政式」が執り行われた。その4日後には、台北大稲埕大日本台湾病院を設置し、日本より医師10人、薬剤師9人、看護師20人を招へいした。それは74年の「征台ノ役」で日本軍の損害は戦死6人、戦傷30人と記録されているが、マラリアなどの風土病による病死が521人という手痛い経験があったからである。

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古川 勝三FURUKAWA Katsumi経歴・執筆一覧を見る

1944年愛媛県宇和島市生まれ。中学校教諭として教職の道をあゆみ、1980年文部省海外派遣教師として、台湾高雄日本人学校で3年間勤務。「台湾の歩んだ道 -歴史と原住民族-」「台湾を愛した日本人 八田與一の生涯」「日本人に知ってほしい『台湾の歴史』」「台湾を愛した日本人Ⅱ」KANO野球部名監督近藤兵太郎の生涯」などの著書がある。現在、日台友好のために全国で講演活動をするかたわら「台湾を愛した日本人Ⅲ」で磯永吉について執筆している。

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