台湾を変えた日本人シリーズ:台湾医学界の父・堀内次雄

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古川 勝三 【Profile】

台北市中正区の台北府城東門(景福寿門)から伸びる仁愛路一段1号に台湾大学医学人文博物館がある。

旧台湾総督府医学専門学校の校舎だった建物の一部で1907年に建築された。当時、台湾総督府営繕課に勤務していた近藤十郎による設計である。当初は赤レンガと白花崗岩を使ったバロック式で建築したが、30年に発生した内部火災で大改修された際、ルネサンス様式の建物に姿を変えている。

館内には台湾医学界に貢献した人物の胸像が設置されている。日本人では1899年の初代校長・山口秀高、1902年の第二代校長・高木友枝、そして15年から21年間校長を務め、多くの台湾人医学生を世に送り出した堀内次雄の3人だ。

コレラで次々と命を落とす兵士を診た経験から細菌学の世界に

堀内は、1873年に士族の子として丹波篠山(現在の兵庫県篠山市)に生まれた。苦学をしながら16歳で薬剤師試験に合格し、日清戦争の始まった94年に仙台の第二高等中学校医学部を卒業。95年には陸軍三等軍医に任じられ、近衛師団に配属された。

下関条約で1895年に領有した台湾に仙台近衛師団が上陸することになり、師団の軍医として従軍した。そこで疫病のひどさと恐ろしさを経験する。同近衛師団の2割を超える兵がコレラに感染し、死亡したのである。堀内は、この従軍経験から台湾における医師養成の必要性を痛感し、96年に軍医を退役し、細菌学の研究に没頭した。

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古川 勝三FURUKAWA Katsumi経歴・執筆一覧を見る

1944年愛媛県宇和島市生まれ。中学校教諭として教職の道をあゆみ、1980年文部省海外派遣教師として、台湾高雄日本人学校で3年間勤務。「台湾の歩んだ道 -歴史と原住民族-」「台湾を愛した日本人 八田與一の生涯」「日本人に知ってほしい『台湾の歴史』」「台湾を愛した日本人Ⅱ」KANO野球部名監督近藤兵太郎の生涯」などの著書がある。現在、日台友好のために全国で講演活動をするかたわら「台湾を愛した日本人Ⅲ」で磯永吉について執筆している。

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