日本語籍を取得した日

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日本国籍はないけれど、日本語籍は手に入れた

中国語で小説を書いていた時期は、いつか日本語でも小説が書けるようになるとは思ってもみなかった。

表現自体は好きで、当時はまだ片言だった日本語でも表現せずにはいられなかった。初級クラスの作文の課題で「厳寒」「酷暑」「耽溺(たんでき)」のような、どんな初級の教科書でも決して出てこない熟語を好んで使った。プレゼンの練習で藤村操「巌頭之感」を暗誦(あんしょう)するなんてこともやってのけた。休憩時間はいつも先生をつかまえて、五段活用やら四字熟語やら漢文訓読やらの質問をしたものだから、きっと手の焼ける生徒だっただろう。

アニメやドラマの台詞(せりふ)の書き取りをしたり、日本語で日本の小説を読んだり、漢文訓読を独学したりなど、あの手この手で日本語の表現の幅を押し広げようと努力した。それでもうんと長い間、私の持っている日本語の語彙や文型の質と量はとても表現したいことを満足に表現できるほどのものではなかった(厳密に言えば今もそうだが)。多様かつ正確な表現が求められる文学作品は、非母語話者の自分ではとても書けないと思っていた。

文学は言語を用いた芸術表現であると同時に、言語そのものの可能性を押し広げる役割も担っている。だとすれば、本来自分のものではない言語で、果たしてそれが可能なのか。長い間、私は不可能だと思っていた。思い込んでいた。

これはよく考えればおかしなことで、言語というものは本来、誰かの所有物ではなく、もっと開かれた存在で、異なる時空間の人類に共有され、歴史と共に変化を遂げていくもののはずだ。にもかかわらず、母語でない言語を「自分のもの」として、何か既存の規範(文法、言葉の辞書的意味、母語話者の言語感覚)に従うのではなくわが物顔で「可能性を押し広げる」努力をしようするのは、どうしても憚(はばか)られた。

非母語話者は、言葉の世界の難民だ。幼少期に習得した第一言語の領域を離れれば、その言語使用の正統性は誰にも認められない。母語話者同士でも言語感覚が大きく乖離(かいり)することがあるにもかかわらず、非母語話者と母語話者の語感が食い違った時に正しいとされるのは常に母語話者の方で、非母語話者にはその言語に対する解釈権がないのだ。移民が、移住先の国の内政に口出しする権利が認められないように。

非母語話者であることは、「あなたの日本語はおかしい、不自然だ」と指摘される恐怖に絶えず晒され続けることだ。非母語話者自身も、自分の言語感覚にはなかなか全幅の信頼を置けないものである。

だからこそ「群像新人文学賞」を取った時、作家としてデビューした喜びもさることながら、「日本語の使い手として認められた」喜びもひとしおだった。慣れない手つきで、辞書やネット情報を参照しながら恐る恐るこしらえた初めての日本語小説は、図々(ずうずう)しくも私なりの「可能性を押し広げる」試みだった。元来、小説を書くことは綱渡りに似たもので、第二言語の場合、その綱は蜘蛛(くも)の糸のように脆弱(ぜいじゃく)なものだ。気を抜けば墜落して粉々に砕けかねないと知りながら、それでも捨て身のつもりで繰り出した無謀な跳躍は、幸い、墜落せずに済んだ。跳躍した先に誰かに受け止められ、頭を軽く撫(な)でながら「あなたはここにいていいよ、書いていていいよ」と優しく告げられ、筆を手渡されたような気分だった。

それはまさに私が誰かに言ってほしいことだった。血を吐く思いで辛うじて手に入れた、日本語という名の筆。その筆を信頼していいということを知って、とても安心した。「日本国籍」ならぬ「日本語籍」をやっと手に入れたような気分だった。

国籍というのは閉じられたもので、所定の条件を満たし、所定の手続きを踏まえ、所定の審査を通して初めて手に入るもの。新しい国籍を取得するためには古い国籍を放棄する必要がある場合もある。しかし「語籍」は開かれたもので、誰でもいつでも手に入れていいし、その気になれば二重、三重語籍を保持することもできる。国籍を取得するためには電話帳並みの申請書類が必要だけれど、語籍を手に入れるためには、言葉への愛と筆一本で物足りる。国籍は国がなくなれば消滅するけれど、語籍は病による忘却か、死が訪れるその日まで、誰からも奪われることはないのだ。

やっと日本語籍を取得したその日、講談社ビルを出て黒が濃密な夜空を見上げ、私は一度深呼吸をした。そして心の中で決めた。

この二重語籍の筆で、自分の見てきた世界を彩るのだと。

バナー写真=日本語の表記は、平仮名の梢(こずえ)に漢字の花びらが点々と飾りつけられているように感じた(筆者提供)

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