日本語籍を取得した日
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平仮名も知らなかった女子中学生が、群像文学賞作家に
先日、拙著『独り舞』の中国語版『獨舞』を台湾で出版した。作者と訳者が同一人物の文学作品は、空前絶後と言わないまでも相当珍しいだろう。宣伝文句に「史上初、群像新人文学賞優秀作を受賞した台湾人」とある。この通り私は日中両語で創作活動を行っている台湾人作家である。
日本語で小説を書く台湾人作家と言えば、温又柔さんや東山彰良さんが有名だろう。しかし彼らは幼少期から日本に移住し、いわば日本語の中で育った人たちである。
私はそうではない。今でこそ日本に住んでいるものの、引っ越してきたのはわずか数年前のことだ。一人の、ごく普通の留学生として。日本には家族や親戚がいない。そもそも私の家族や親戚の中で日本人や日本在住者はおろか、日本語ができる人が一人もいなかったのだ。
だから子供時代に、私は日本語に触れる機会がほとんどなかった。中学の歴史の授業で「平仮名」と「片仮名」の成立を習うまで、そもそも「平仮名」と「片仮名」という名称すら知らなかった。プリングルズの多言語の食品表示で「召し上がる」という日本語の言葉を見かけた時は、漢字しか読めないから「上へ召喚する」という意味かと思った。確かにプリングルズを食べる時は筒状の容器の中からポテトチップスを上へ順次取り出す必要があるのだけれど、それは日本語では「召喚」というのかと面白がった。
あの「あいうえお」も読めなかった女子中学生が、12年後に日本純文学の代表的な文学賞「群像新人文学賞」で作家デビューすることになるなんて、私も含め、誰にも想像できなかっただろう。
日本語に恋したからうまくなった
なんで日本語を習おうと思ったの?
日本に来てから何度も何度もそう聞かれたが、聞かれるたびに私は首をかしげながら悩む。
就職するためとか、日本のアニメが好きだからとか、そういった分かりやすい動機があればいいのだが、それが私にはなかったのだ。結果的に日本で就職したし、日本のアニメも確かに好きだけど、どれも日本語を習った結果であって、理由やきっかけではない気がする。
結局、きっかけは特にないかな、と答えるしかなさそうだ。ある日、15歳の私に突如降りかかってきた、そうだ、日本語を習ってみよう、というその正体不明な想念がそもそもの始まりだった。もし天啓というものがあれば、まさにそういうことなのかもしれない。
とはいえ、天啓だけでは語学学習が十何年も続くわけがない。始まりは正体不明な想念であっても、いざ学んでみる日本語の美しさに魅了され、続けずにはいられなくなり、気付いたら十何年もたったのである。
どこが美しいかって?
まずは表記面。漢字と仮名が混ざり合う字面は、密度がふぞろいなゆえにまだら模様のように美しく感じた。例えるならば平仮名の海に漢字の宝石が鏤(ちりば)められているように、あるいは平仮名の梢(こずえ)に漢字の花びらが点々と飾り付けられているように。月光が降り注ぐと海がきらきらと輝き出し、風が吹き渡ると花びらがゆらゆらと舞い降りた。
そして音韻面。日本語の音節は基本的に「開音節」と言って、「子音+母音」の組み合わせである。例えば「こ」なら「k」+「o」、「と」なら「t」+「o」という具合に。他の言語は必ずしもそうではない。「子音+母音」の組み合わせが続くと、機関銃のようにダダダダダッととてもリズミカルに聞こえて、つい声を出して繰り返したくなるのだ。あ、輝く水面と舞い降りる花びらの後にいきなり機関銃を出してごめんなさい。
そうして私は初級、中級、上級と、日本語の階段を上っていった。いつしか日本語で独り言を言うようになり、夢の登場人物まで日本語を喋り出した。日本に渡り、日本企業で就職した。あろうことか日本語で小説なんて書こうと思い、それが僥倖(ぎょうこう)にも受賞してしまった。今や日本語は私にとって必要不可欠なものになっているのだ。
何のきっかけもなく、それこそ気まぐれで始めた日本語学習が私の人生を大きく変えたのだ。しかし、もし当初は気まぐれではなく明確な目的意識を持って日本語と対峙していたのなら、恐らくここまでは来られなかっただろう。そんな気がしてならない。兎が死ねば犬は煮られ、鳥がなくなれば弓は仕舞われる。目的があれば日本語もただの道具で、目的が達成した瞬間に不要なものになってしまう。私にとって日本語は道具ではなく、目的そのものなのだ。そう、恋みたい。
何故ここまで日本語が上達したのかと聞かれれば、それは、日本語に恋をしたから、と答えるほかなさそうだ。
日本国籍はないけれど、日本語籍は手に入れた
中国語で小説を書いていた時期は、いつか日本語でも小説が書けるようになるとは思ってもみなかった。
表現自体は好きで、当時はまだ片言だった日本語でも表現せずにはいられなかった。初級クラスの作文の課題で「厳寒」「酷暑」「耽溺(たんでき)」のような、どんな初級の教科書でも決して出てこない熟語を好んで使った。プレゼンの練習で藤村操「巌頭之感」を暗誦(あんしょう)するなんてこともやってのけた。休憩時間はいつも先生をつかまえて、五段活用やら四字熟語やら漢文訓読やらの質問をしたものだから、きっと手の焼ける生徒だっただろう。
アニメやドラマの台詞(せりふ)の書き取りをしたり、日本語で日本の小説を読んだり、漢文訓読を独学したりなど、あの手この手で日本語の表現の幅を押し広げようと努力した。それでもうんと長い間、私の持っている日本語の語彙や文型の質と量はとても表現したいことを満足に表現できるほどのものではなかった(厳密に言えば今もそうだが)。多様かつ正確な表現が求められる文学作品は、非母語話者の自分ではとても書けないと思っていた。
文学は言語を用いた芸術表現であると同時に、言語そのものの可能性を押し広げる役割も担っている。だとすれば、本来自分のものではない言語で、果たしてそれが可能なのか。長い間、私は不可能だと思っていた。思い込んでいた。
これはよく考えればおかしなことで、言語というものは本来、誰かの所有物ではなく、もっと開かれた存在で、異なる時空間の人類に共有され、歴史と共に変化を遂げていくもののはずだ。にもかかわらず、母語でない言語を「自分のもの」として、何か既存の規範(文法、言葉の辞書的意味、母語話者の言語感覚)に従うのではなくわが物顔で「可能性を押し広げる」努力をしようするのは、どうしても憚(はばか)られた。
非母語話者は、言葉の世界の難民だ。幼少期に習得した第一言語の領域を離れれば、その言語使用の正統性は誰にも認められない。母語話者同士でも言語感覚が大きく乖離(かいり)することがあるにもかかわらず、非母語話者と母語話者の語感が食い違った時に正しいとされるのは常に母語話者の方で、非母語話者にはその言語に対する解釈権がないのだ。移民が、移住先の国の内政に口出しする権利が認められないように。
非母語話者であることは、「あなたの日本語はおかしい、不自然だ」と指摘される恐怖に絶えず晒され続けることだ。非母語話者自身も、自分の言語感覚にはなかなか全幅の信頼を置けないものである。
だからこそ「群像新人文学賞」を取った時、作家としてデビューした喜びもさることながら、「日本語の使い手として認められた」喜びもひとしおだった。慣れない手つきで、辞書やネット情報を参照しながら恐る恐るこしらえた初めての日本語小説は、図々(ずうずう)しくも私なりの「可能性を押し広げる」試みだった。元来、小説を書くことは綱渡りに似たもので、第二言語の場合、その綱は蜘蛛(くも)の糸のように脆弱(ぜいじゃく)なものだ。気を抜けば墜落して粉々に砕けかねないと知りながら、それでも捨て身のつもりで繰り出した無謀な跳躍は、幸い、墜落せずに済んだ。跳躍した先に誰かに受け止められ、頭を軽く撫(な)でながら「あなたはここにいていいよ、書いていていいよ」と優しく告げられ、筆を手渡されたような気分だった。
それはまさに私が誰かに言ってほしいことだった。血を吐く思いで辛うじて手に入れた、日本語という名の筆。その筆を信頼していいということを知って、とても安心した。「日本国籍」ならぬ「日本語籍」をやっと手に入れたような気分だった。
国籍というのは閉じられたもので、所定の条件を満たし、所定の手続きを踏まえ、所定の審査を通して初めて手に入るもの。新しい国籍を取得するためには古い国籍を放棄する必要がある場合もある。しかし「語籍」は開かれたもので、誰でもいつでも手に入れていいし、その気になれば二重、三重語籍を保持することもできる。国籍を取得するためには電話帳並みの申請書類が必要だけれど、語籍を手に入れるためには、言葉への愛と筆一本で物足りる。国籍は国がなくなれば消滅するけれど、語籍は病による忘却か、死が訪れるその日まで、誰からも奪われることはないのだ。
やっと日本語籍を取得したその日、講談社ビルを出て黒が濃密な夜空を見上げ、私は一度深呼吸をした。そして心の中で決めた。
この二重語籍の筆で、自分の見てきた世界を彩るのだと。
バナー写真=日本語の表記は、平仮名の梢(こずえ)に漢字の花びらが点々と飾りつけられているように感じた(筆者提供)