台湾文学を日本に広げた人物の早すぎる死——翻訳家・天野健太郎氏を悼む

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野嶋 剛 【Profile】

友人らが天野氏との思い出を語る

しのぶ会では、台湾カルチャーミーティングを天野氏と二人三脚で同センターの目玉イベントに育てた朱文清・台湾文化センター長による黙とうと挨拶が行われた。朱文清氏はこのしのぶ会を最後に離任して台湾に帰国している。天野氏には、自らの帰任後もセンターでカルチャーミーティングを担当するよう依頼したが、黙って首を横に振るだけだったという。それから間もなくして天野氏の訃報が届いた。朱文清氏は「台湾文学のため、一生懸命最後まで全身全霊を尽くしてくれた」と語った。

朱文清・台湾文化センター長(nippon.com高橋郁文撮影)
朱文清・台湾文化センター長(nippon.com高橋郁文撮影)

「台湾文学と天野健太郎」と題して講演した台湾文学研究者の赤松美和子・大妻女子大准教授は、お互い台湾文学の日本での普及のために励ましあってきた仲だった。赤松氏によれば、これまで日本で翻訳された台湾文学は200冊以上あり、そのうち、読者を獲得して増刷したのは5冊。うち天野氏の手によるものは『台湾海峡一九四九』と『歩道橋の魔術師』の2冊を数えるという。日本で非常にマイナーなジャンルだった台湾文学を「外国文学の一つのジャンルに押し上げた」と赤松氏は形容する。

赤松氏は「天野さんは、日本で最初で最高の台湾文学翻訳家であり、台湾を愛する人と台湾の本をつなぐ名プロデュサーでもあった。日本にはもっと天野さんの才能が必要だったが、卓越した才能と情熱を台湾文学に注ぎ、数々の素晴らしい翻訳作品を残してくださったことに心より感謝と敬意を示します」と講演を締めくくった。

赤松美和子・大妻女子大学准教授(nippon.com高橋郁文撮影)
赤松美和子・大妻女子大学准教授(nippon.com高橋郁文撮影)

しのぶ会では、女優でエッセイストの一青妙氏が『自転車泥棒』の日本語訳の一節を澄んだ声で朗読。それに呼応する形で、文芸評論家の川本三郎氏が、天野氏の翻訳について「天野さんの翻訳は品がいい。日本語のいい文章は誰もが使っている普通の言葉で誰もが言わなかったことを言うというのが、一番の文章の真髄。天野さんの翻訳はまさにそうです。実にきれいで品が良く、普通の言葉で訳していて、あれだけのイメージが膨らんでいくのはあの方の才能だった」と評価した。天野氏は川本氏に台湾を案内したこともあった。

一青妙氏(nippon.com高橋郁文撮影)
女優でエッセイストの一青妙氏(nippon.com高橋郁文撮影)

川本三郎氏(nippon.com高橋郁文撮影)
文芸評論家の川本三郎氏(nippon.com高橋郁文撮影)

翻訳家として天野氏と交流があった人々もしのぶ会で挨拶に立った。ハングル文学を専門とする斎藤真理子氏は「海外文学の翻訳という分野をお祭りに例えると、いろんな屋台が出ていて、その端っこの場所で、天野さんはたこ焼きを、私はイカ焼きを売っている。隣でたこ焼きを隣で上手で作っている天野さんがいることはとても心強かった」と振り返り、中国文学を専門とする泉京鹿さんは「天野さんは『翻訳は辛い、でも好きだし、選ばれてしまったから頑張っている』と話していた。翻訳家同士の愚痴を言い合いながら、苦労を心から理解しあえる同士でした」と述べた。

斎藤真理子氏(nippon.com高橋郁文撮影)
ハングル文学翻訳家の斎藤真理子氏(nippon.com高橋郁文撮影)

泉京鹿氏(nippon.com高橋郁文撮影)
中国文学翻訳家の泉京鹿氏(nippon.com高橋郁文撮影)

ミステリー作家の島田荘司氏も、天野氏の翻訳『13・67』を通して天野氏と知り合った。「華文ミステリーにはまだまだ天野さんが必要だった」とその死を惜しんだ。

島田荘司氏
ミステリー作家の島田荘司氏(nippon.com高橋郁文撮影)

しのぶ会の最後には、天野氏の父親で愛知県に住む天野真次さんが挨拶を行った。天野氏は生前、ほとんど翻訳の仕事について家族に話していなかったため、訃報が日本の大手新聞に掲載されたときは広告費用が必要になるかと勘違いしたことを明かした。子供のころから、天野氏が俳句をたしなんでいたエピソードなどを披露しながら、「おばあちゃん子」であったという天野氏をかわいがった天野氏の祖母も同時期に他界したことに対し、家族の悲しみを語り、聴衆の涙を誘った。

天野真次氏(nippon.com高橋郁文撮影)天野健太郎氏の父・天野真次氏(nippon.com高橋郁文撮影)

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野嶋 剛NOJIMA Tsuyoshi経歴・執筆一覧を見る

ジャーナリスト。大東文化大学教授。1968年生まれ。上智大学新聞学科卒。在学中に、香港中文大学、台湾師範大学に留学する。92年、朝日新聞社入社。入社後は、中国アモイ大学に留学。シンガポール支局長、台北支局長、国際編集部次長などを歴任。「朝日新聞中文網」立ち上げ人兼元編集長。2016年4月からフリーに。現代中華圏に関する政治や文化に関する報道だけでなく、歴史問題での徹底した取材で知られる。著書に『認識・TAIWAN・電影 映画で知る台湾』(明石書店)、『台湾とは何か』(ちくま新書)、『故宮物語』(勉誠出版)、『台湾はなぜ新型コロナウイルスを防げたのか』(扶桑社新書)『香港とは何か』(ちくま新書)『蒋介石を救った帝国軍人 台湾軍事顧問団・白団の真相』(ちくま文庫)『新中国論 台湾・香港と習近平体制』(平凡社新書)など。オフィシャルウェブサイト:野嶋 剛

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