漢詩や篆刻が育んだ尾崎秀真と台湾人の友情

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森 美根子 【Profile】

台湾だからこそ開花した芸術的資質

1929年秋、台湾日日新報社常任監査役にして、石章、古硯(こけん)、印譜のコレクターとして名高い石原幸作(号・西涯、三癖老人)と「趣味の会」を、さらには1935年夏には石原幸作、嶺謙也(号・竹軒、台北市新起町郵便局局長)らと「玉山印社」を、それぞれ組織している。

ちなみに「趣味の会」の発会式は北投の温泉旅館、桔梗屋で開かれたが、秀真をはじめ台北の書画家や篆刻家が三十数名集まり、温泉に浸かった後、大広間で素焼きの陶器に揮毫したり、土器に篆刻したりしたと伝えられている。

秀真は台湾日日新報に、篆刻家たちの作品を紹介する連載『古邨讀餘印存』や篆刻の心得や品評を述べた連載『讀古荘清談』を次々に発表しているが、あるとき、石についても記者の取材に次のように答えている。

石に対する道楽は支那でも非常に古くからあったもので(中略)、支那人は石の堅いこと及びそれと共に苔のついた石の柔らかさ、水に浸っている潤いなどを非常に愛したもので、これほど芸術味豊かなものはなく、実に東洋芸術の粋であります。東洋芸術でも草花より盆栽に進み、骨董のうち書画刀剣よりさらに進んで、最終的には石に到達し、石を愛するに至って、初めて東洋芸術の蘊蓄(うんちく)を究めることになります。(中略)私の主義たる自然石を拾ってきて集めるということからいえば、すなわちこれは乞食であり、乞食にならねば駄目である。お金をかけて趣味のコレクションをなしている間はまだまだ初歩であり芸術の中途にあるものです。(中略)石は死物ですけれども、こうして石を蒐集(しょうしゅう)し愛することを「石をかう」とか「石を養う」すなわち「養石」とかの言葉が用いられ、死物に対する無量の芸術味を鑑賞するのです。(台湾日日新報、1931年7月20日、3面)

秀真は、台湾美術展覧会の評議員や書道展の審査員を務めた時も、有識者による台湾の歴史文を語る座談会に出席した時も、一貫して詩書画一体(篆刻含む)によって成立する東洋芸術を重視するよう求め、台湾の文化を語るにはまず台湾の生い立ちを知らなければならないと説いている。

幼い頃より目覚めた文学への憧れはやがて篆刻の世界で実を結ぶことになるが、彼本来の芸術的資質は、当時まだ清朝時代の伝統文化が多く残った台湾であったが故に深められたといっても過言ではない。ともすれば明治の知識人・エリートは政府が推進した欧化主義により伝統文化と背馳(はいち)せざるを得なかったが、その一方で秀真のように東洋芸術の神髄を究めようとする日本人がいたことも忘れてはならないと思うのである。

参考文献:葉碧苓著『日治時期推動臺灣篆刻的領軍人物:尾崎秀眞(1874-1949)』臺灣美術學刊No.112 2018

バナー写真=台湾時代の尾崎秀真(前列左から2人め、後列左から3人めは尾崎秀実)と家族、1919年春(筆者提供)

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台湾美術研究家。東京生まれ。一般財団法人台湾協会理事。元了徳寺大学非常勤講師、アジア太平洋交流学会理事。1996年、アートコンサルタントとして台北県立文化センター主催「民俗風情―立石鐵臣回顧展」日本側責任者を務める。以降、台湾人画家の日本での展覧会を多数企画。その間、国立台湾師範大学、国立台湾芸術大学、北京中国美術館などで講演。著書に『台湾を描いた画家たち―日本統治時代 画人列伝』(産経新聞出版、2010年)、『日本統治時代台湾 語られなかった日本人画家たちの真実』(振学出版、2018年)がある。

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