
蔦重を取り巻く出版業者 : 書物問屋と地本問屋
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学術関係の「書物問屋」は幕府公認の株仲間
現代でも辞書や専門的な学術・研究書などの出版社と、一般向けの書籍・小説・雑誌を発売する版元では、本の内容も役割も大きく異なる。このふたつのジャンルは江戸時代の出版においても双璧だった。
辞書や学術書の版元は「書物問屋」といわれ、幕府が株仲間(詳細は後述)を結成することを公認していた。一方の娯楽書は「地本問屋」が担い、こちらに株仲間はない。
事の起こりを知るには、民間の出版業者が注目されはじめた寛永年間(1624〜44)頃の京都の事情を説明しなければならない。なお、江戸時代の出版社は「書肆(しょし)」「書林」「書物屋」「本屋」などさまざまな呼び方が文献に見られるが、ここでは例外を除き、現代にも通じやすいよう出版社を「版元」(江戸時代は「板元」)、小売を「本屋」とする。
京都で出版が盛んになった理由は、寺社が多かったからである。すでに平安・鎌倉時代から寺社が出版事業を行っており、それを民間が取って代わった、あるいは民間に委託するケースが増え、江戸時代には多くの版元が参道や門前町に店舗を持つようになった。
版元が薬屋を兼業することも少なくなかった。堺の港から輸入した生薬や漢文の本を、同時に商う業者がいたためと考えられる(江戸の本屋[上]鈴木敏夫/中公新書)。 江戸が発祥の書物問屋・須原屋茂兵衛(すはらや・もへえ)も創業時は薬屋を兼業しており、そこから「のれん分け」を受けた市兵衛は、日本最初の本格的な西洋解剖学書の翻訳書である『解体新書』を出すなど、のちに江戸を代表する版元となる。
写真は大名の名鑑である『武鑑』。これは寛政期に出た書物問屋の須原屋茂兵衛版で、紀州徳川家の系図や家紋が掲載されている。国立国会図書館所蔵
元禄年間(1688〜1704)に入ると、京都では「書林十哲」と呼ばれる10の版元が中心となった。刊行したのは儒医書や、禅書など各宗派の宗教書、さらに歌書(和歌に関する書)といった学術本だった。やがてこうした業者が、幕府が本拠を置き実質的な首都となった江戸に出先機関を置くようになる。
京都の書物問屋は、株仲間の結成を認められていた。株仲間とは、カルテルのような職業組合である。権力者に冥加金を献金することによって営業独占権を認められた集団で、版元の他にも米や廻船の問屋などが知られている。京都では「暦」を制作・販売する出版業者に、古くから株仲間が存在していた(江戸の本屋[下]/同上)。
江戸では出版の経済活動を損なうとして認められていなかったが、1722(享保7)年に変革が起きた。大岡越前守で知られる町奉行・大岡忠相(ただすけ)が、次のお触れを公布する。
- 新刊にはこれまでの通説に異説を加えてはならない
- 好色本は段階を踏んで絶版とする
- 他人の家系に勝手に手を加えてはならない
- 必ず作者名と版元名を奥付に明記
- 家康公と徳川家に関する本は出版禁止
事実上の出版統制だが、これを遵守すれば株仲間の結成を認める。その代わりに出版する本の内容を株仲間が相互にチェックし、お触れに反しないようにせよ──つまり自主規制を命じたわけである(江戸の本屋さん/今田洋三、平凡社)。
書物問屋の株仲間が冥加金を徴収された記録はない(江戸の本屋[下]/同上)。カネは不要、代わりに幕府に不利な内容の本は互いに監視して出版を阻めという、実に巧妙な手法だったといえる。
だが、自由な表現を求める者たちの間には、不満が募った。大衆も本当に知りたいことを教えてくれないお堅い本に興味は薄かった。そこに新たな市場を開拓する余地が生まれ、地本問屋が参入することになる。
なお、書物問屋株仲間は1841(天保12)年、自由経済に弊害ありとして廃止されたが、1851(嘉永4)年には再興され、明治維新まで存続した。
地本問屋は新規参入の壁が高かった
一方、大坂では1682(天和2)年、井原西鶴の浮世草紙『好色一代男』が大ブームを巻き起こした。
大坂の版元は、二匹目のどじょうをねらって西鶴に好色本の執筆を依頼し、『好色浮世躍』などが世に出る。好色本は他の著者を起用しながら続々と発売され、なかには大坂と江戸の版元が名を連ねる、地域をまたいで提携した本もあった。こうして関東にも、娯楽本が定着していく。
1693(元禄6)年、西鶴が没すると、出版の拠点は上方から江戸に移った。人口が急増している江戸の方が、市場として成長する見込みがあったからだろう。江戸の娯楽本は上方からの「下(くだ)り本」とは異なる、「江戸の地」で作られたという意味で「江戸地本」といわれるようになる。
江戸で古くからあった地本問屋は鱗形屋(うろこがたや)。1660(万治3)年、大伝馬町(東京都中央区)に店を構え、江戸で初の草双紙、すなわち大部分を絵が占め、周囲にひらがな中心の文を配した漫画に近い本を出版したと、『草双紙評判記 菊寿草』(1781/天明元年刊)は伝える。この板元の後継者が鱗形屋孫兵衛である。
1779(安永8)年の鱗形屋店頭を描いたもの。『三升増鱗祖』国立国会図書館所蔵
京都から江戸に出店した鶴屋(つるや)も大手だった、経営者が代々喜右衛門(きえもん)の名を世襲した地本問屋だ。
地本問屋は幕府から株仲間の結成を認められていない。だが、書物仲間と同じように強固なつながりを持つ集団を組織し、例えば完成した草双紙を他の同業者に送り、その対価分の本をもらう「本替」によって、ある程度の部数をさばくことができた。
下の『道中画譜』は1830(天保元)年頃、葛飾北斎が名古屋の版元の東壁堂を描いた絵だ。風呂敷を担いだ人物が糶(せり/世利ともいう)と呼ばれた同業者で、本を仕入れている。
葛飾北斎画『道中画譜』に描かれた版元・東壁堂。東壁堂は1776(安永5)年から名古屋にあったが、店頭は江戸の版元と変わらない。江戸の版元と合版で出版することもあった。国立国会図書館所蔵
地本問屋は似た内容の「重板」や、内容を多少変えただけの「類板」、海賊版の横行も互いに監視していたが、既得権益を守るゆえに、第三者の新規参入が困難で新陳代謝がないというデメリットもあった。丁稚として奉公した者が手代・番頭に昇格し、独立後も同じ屋号を名乗る「のれん分け」はあったが、主家との上下関係は維持されたままで窮屈だった。
これでは業界は膠着する。そうした状況下に登場し、これまでと違う出版物を出していったのが、蔦屋重三郎(以下、蔦重)なのである。
本は「借りる」のが一般的だった
江戸時代の出版を支えた存在としてもうひとつ、貸本屋があげられる。蔦重はそもそも貸本屋だった。
本は高価だったので、庶民は「借りて」読むのが一般的だった。料金は時代によって異なるが、蔦重が生きた時代は1冊6〜30文。蕎麦一杯の値段が16文だから、リーズナブルだったといえよう。
江戸の人々の読書熱は支えたのは、こうした貸本屋だったと、国文学者・書誌学者の長友千代治は『江戸時代の図書流通』(思文閣出版)で指摘している。
問屋にとってもメリットがあった。草双紙は10ページほどの薄い冊子で、部数も多くはなかったが、板木を彫れば大量生産が可能なため制作費は安く、一方で価格は高く設定していた。
『画入読本外題作者画工書肆名目集』には貸本屋は1808(文化5)年、江戸に656軒あったとの記録がある。それらの貸本屋が版元から本を仕入れたと仮定すれば、600冊近くは売れたことになる。現在、600部というとさほど多い部数と思えないだろうが、1800年前後の草双紙の初版は250部程度だったといわれ(三田評論オンライン2025年1月8日)、十分に利益が出た。
貸本屋には風呂敷に包んだ本を背負って町を巡回する者、芝居小屋の楽屋を訪れて役者に貸す者、参勤交代で江戸に滞在している武士を顧客とする者、さらに蔦重のように、吉原の遊廓を商売の場とする者もいた。
(右)『従夫以来記』にある大名屋敷を訪れた貸本屋。武士の子どもたちが本を選んでおり、その奥に父親たちがいる。(左)『傾城怪談冬廼月』には市中を回る貸本屋の後ろ姿が…。2点とも国立国会図書館所蔵
武士は上客だった。江戸に来ている武士は地方出身のいわば「お上りさん」が多く都会に不案内。吉原細見や遊び方の本は人気が高かったのである。
しかも性に関連した本は、外ではおおっぴらに読めない。それを貸本屋は屋敷まで届けてくれる。いかがわしい本ほど引く手あまたで、男女の交わりを描写した「春本」は料金2割増だったという。
貸本屋は「貸本専門」だったわけではない。それだけで経営は成り立たず、ほとんどが小売と兼業だったと考えられる。版元も同じである。完成した本を一般客に販売しても利益は薄いため、問屋同士で本を流通し合う、または貸本屋に買ってもらうなど、業界全体が相互扶助によって成立していたといえる。
特殊な商いだったことが垣間見られて興味深い。
【参考図書】
- 『江戸の本屋 上・下』鈴木敏夫/中公新書
- 『江戸の本屋さん 近世文化史の側面』今田洋三 /平凡社ライブラリー
- 『江戸時代の図書流通』長友千代治/思文閣出版
- 別冊太陽『蔦屋重三郎』鈴木俊幸監修/平凡社
- 三田評論オンライン「江戸の版元」 2025年1月8日
バナー写真:『江戸名所図会』にある鶴屋喜右衛門の地本問屋。国立国会図書館所蔵