江戸のメディア王・蔦重が生きた時代

マンネリ「吉原細見」を大胆リニューアルした蔦重の編集魂

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江戸時代に「細見」(さいけん)と呼ばれるガイドブックが人気だった。旅に役立つ地図付きの「街道細見」や、歌舞伎の鑑賞に便利な「芝居細見」など、さまざま流通していたが、なかでも評判を呼んだのが遊廓の案内書「吉原細見」。一度も見たことがないという男など、江戸にはいなかったほどだ。年2回の改訂を続けながら流通したロングセラーである。

情報収集力を買われ「吉原細見」の編集者に

吉原細見は、妓楼の屋号と在籍する遊女の名前、揚代(料金)、さらに遊女との出会いを仲介する引手茶屋などの情報を1冊にまとめていた。

歴史は古く、延宝年間(1673〜1681)には1枚刷りの印刷物として流通していたという。
享保期(1716〜1736)までには横版の冊子となり、1月と7月の年2回刊行が定着し、明治維新以降も続いた。このことから、日本最長の定期刊行物と称される。定期刊行化された初期のものが、立命館大学アート・リサーチセンターに所蔵されている。

江戸市中の本屋、さらに年2回の刊行時期には行商人が売り歩いた。家の近くで購入するのはひと目をはばかると、わざわざ遠くまで行って買う男たちを皮肉った川柳もある。

細見は四つ程先へ遣てかい(買い)

元文期(1736〜1741)は2つの版元(今でいう出版社)が発行していたが、20年ほどすると鱗形屋孫兵衛(うろこがたや・まごべえ)が経営する「鱗形屋」が独占するようになる。競合相手がいないため、内容は次第にマンネリ化していった。

1771(明和8)年刊、鱗形屋の細見は横版だ。/台東区立図書館デジタルアーカイブより
鱗形屋独占期1771(明和8)年刊の細見。横長の見開き / 台東区立図書館デジタルアーカイブより

一方、この時期、安い料金で遊べる非公認の売春地区「岡場所」や、品川・千住・新宿などの宿場町で売春する安価な飯盛女が増え、吉原の景気は悪くなる一方だった。集客の大切なツールである細見の見直しは、喫緊の課題だった。

そこで鱗形屋は1774(安永3)年、細見の取材・編集担当者「改所(あらためどころ)」として新たな人材を登用する。

遊女は異動・死亡などで頻繁に入れ替わる。それまでの細見はそうした情報を詳細にアップデートできていなかったが、新しい改所は生粋の吉原育ち。妓楼の主人や遊女などに広いネットワークを持ち、情報収集力は抜群だ。その人物こそ、当時、数え25歳の蔦屋重三郎(以下、蔦重)だった。

蔦重が初参画した細見『嗚呼御江戸』の奥付(最後のページ)には、「吉原の入り口大門に続く五十間道にいる、蔦屋重三郎が編集した」と記されている。これが、歴史に蔦重の名が登場する最初である。

「女郎様方の名前、書き付けてください」

鱗形屋の改所に抜擢される以前の蔦重は、五十間道で本屋を営んでいたという説が濃厚だ。

ひと口に本屋といっても、小売専門、本業のかたわらで本も販売する店や、貸本屋などさまざま。蔦重は、吉原の茶屋・蔦屋次郎兵衛の軒先を借り、細々と貸本屋を営む若者だったようだ。

後に、蔦重と組んで多くの話題作を世に出す山東京伝が著した『青楼昼之世界錦之裏(せいろうひるのせかいにしきのうら)』には、「かし本やはなくした本をせがみ」とのくだりがある。

遊女が失くしたか、汚したかして返却してくれない本を、催促しているのだろう、ぶつぶつ言いながら、吉原をうろちょろしている貸本屋が、若き日の蔦重の姿を描いたものと考えられる。

山東京伝著『青楼昼之世界錦之裏』。枠で囲んだ箇所が「かし本やはなくした本をせがみ」。国立国会図書館所蔵
山東京伝著『青楼昼之世界錦之裏』。枠で囲んだ箇所が「かし本やはなくした本をせがみ」。国立国会図書館所蔵

1780(安永9)年刊の丸本(浄瑠璃を収めた本)『碁太平記白石噺(ごたいへいきしらいしばなし)』にも、「本重」と呼ばれる貸本屋が登場し、「此間お頼申しました女郎様方の名前、書き付けてくださりませ、細見を急ぐので」と口にする場面がある。おそらく、これも蔦重がモデルだろう。

蔦重は日常的に妓楼に出入りし、遊女たちに本を返せやら、細見を作るから早く名前を書いてくれやら、遠慮なく言い合える仲だった。遊廓内部の人間関係も熟知し、表に出にくい情報も入手できただろう。細見の改役にうってつけの人材だったことは間違いない。

才能開花させた大胆リニューアル

編集担当者として蔦重が加わった「細見」のリニューアルポイントは2つ。

ひとつは、判型が横版から縦版に変わった点。各ページの縦の長さが増し、その分、1軒1軒の妓楼の情報を細かく掲載できるようになった。蔦重はさらに工夫を重ね、1783(天明3)年版の細見『五葉松』では、遊女の “格” がひと目で分かるよう、名前の上にマークを付している。読者のニーズに応えるのが彼の真骨頂だった。

吉原細見『五葉松』。(1)は遊女の名前の上に山を2つ並べ、その下に「●」で高級遊女を示す。(2)の「●」がない者は格が落ちる。国立国会図書館所蔵
吉原細見『五葉松』。2つ並べた山の下に「●」を付してあるのが高級遊女(1)、山のみで「●」がない者は格が落ちる(2)。国立国会図書館所蔵

もうひとつは、「福内鬼外(ふくちきがい)」なる人物が序文を寄せている点だ。鬼外は当時、エレキテル(静電気発生装置)を江戸に紹介したり、歯磨き粉・嗽石香(そうせきこう)の宣伝文句を考案したりしたことで話題を呼んでいた平賀源内である。

当代きっての著名人とのタッグという奇抜なアイデアなど、それまでの版元は思い付きもしなかった。

『細見嗚呼御江戸』の「序」は平賀源内が寄稿した。国文学研究資料館所蔵
『細見嗚呼御江戸』の「序」は平賀源内が寄稿した。国文学研究資料館所蔵

鱗形屋は、『嗚呼御江戸』の1年前に発行した細見『這嬋観玉盤(このふみづき)』から縦版を採用している。近世文学・書籍文学史の研究家である鈴木俊幸は、『這嬋観玉盤』からすでに蔦重が関わっていた可能性を指摘している。実は、この時から、蔦重が編集作業の実質的なリーダーを務めていたとも考えられる。

『這嬋観玉盤』は鱗形屋が出した初めての縦版細見。蔦重はこの本にも関わっていたと考えられる。国文学研究資料館所蔵
『這嬋観玉盤』は鱗形屋が出した初めての縦版細見。蔦重はこの本にも関わっていたと考えられる。国文学研究資料館所蔵

『嗚呼御江戸』に続き、初めての独自出版物『一目千本』(ひとめせんぼん/1774)も世に出す。遊女を山葵(わさび)や木蓮(もくれん)などの花にたとえた絵本だ。ツンとしている遊女は山葵──そうした内容の“擬細見”と言ってよく、一般大衆向けの内容とは言えない。

蔦重がクラウド・ファンディングによって制作した『一目千本』には、山葵や木蓮花が挿絵として掲載された。国文学研究資料館所蔵
蔦重がクラウド・ファンディングによって制作した『一目千本』には、山葵や木蓮が挿絵として掲載された。国文学研究資料館所蔵

蔦重はこの花の挿絵を当時の人気絵師・北尾重政に依頼した。重政の報酬や制作費は、入銀(にゅうぎん)で調達した。

入銀とは、人々に制作資金を出してもらうこと。現代でいえばクラウド・ファンディングといえるかもしれない。100人以上の遊女から“出資”を得て、完成後は贈答品として配った。蔦重自身はカネを一銭も出していないのだから、無料配布したところで赤字にはならない。半面、利益も出ないが、花にたとえて描いてもらった遊女たちは喜び、その結果、彼女たちとのパイプはより太くなる。

芸術性を前面に押し出した絵本は性産業の場で異彩を放ち、吉原での評価も高まった。

蔦重が「近代出版の先駆者」といわれる所以は、編集する本の斬新さもさることながら、このような卓越したビジネスセンスにあるだろう。

一方、蔦重を雇った鱗形屋は、上方の本を無断で複製して販売するなどの不祥事が発覚し、信用が失墜。蔦重はそれを尻目に1778(安永7)年、独立して出版業に本格参入し、1783(天明3)年には、細見の出版を独占することになる。

【参考図書】

  • 『[新版]蔦屋重三郎』鈴木俊幸 / 平凡社ライブラリー
  • 『蔦屋重三郎』鈴木俊幸 / 平凡社新書
  • 『江戸の本屋さん 近世文化史の側面』今田洋三 / 平凡社ライブラリー
  • 『PEN BOOKS 蔦屋重三郎とその時代。』  / CCCメディアハウス

バナー写真:山東京伝著『廓ばかむら費字尽(さとのばかむらむらづくし)』の挿絵に、吉原大門の前にある本屋が描かれている。左上に「山に蔦の葉」版元印が見えることから、蔦重の本屋を描いたと想定される。国立国会図書館所蔵

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