極めたる人 : 人間国宝

漆でなかったらここまでやらなかった——蒔絵の人間国宝・室瀬和美:光の装飾表現が織りなす漆黒の宝石

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何百年の時を経ても廃れることなく、日本人の心を揺さぶる伝統芸能や伝統工芸。その貴重な技を次世代へと伝えるために、技を体現・体得した人を国は、重要無形文化財保持者、通称 ・人間国宝に認定している。研さんを重ね、真に技術を磨く人間国宝たちの作家としての覚悟や、作品にかける思いを聞く。2008年に蒔絵(まきえ)の分野で人間国宝となった室瀬和美さんは、漆という素材に“ほれ込み”、人や物、自然との出会いのなかでその道を極めていった。

室瀬 和美 MUROSE Kazumi

1950年東京都生まれ。父は漆芸作家の室瀬春二。70年に東京藝術大学入学後、松田権六氏、田口善国氏に師事。76年東京藝術大学大学院美術研究科漆芸専攻修了。96~98年国宝「梅蒔絵手箱」復元模造制作に参画 。2008年重要無形文化財「蒔絵」保持者に認定。同年紫綬褒章受章。21年旭日小綬章受章。日本工芸会参与。

あっという間に1年が経つ漆芸制作

「漆芸は光の装飾表現だと言えます。漆黒の艶と金の光沢は、まさに輝きを表現するのにぴったりなんです」

ウルシノキから採取した漆液を器に塗り、装飾や保護を施す漆芸は、毎日使う汁椀から芸術品に至るまで、日本の生活と文化を古くから支えてきた。室瀬和美さんは漆芸のうち、漆の上に金粉をまき、絵を描く「研出蒔絵(とぎだしまきえ)」の技法で作品を生み出している。

蒔絵螺鈿文箱「天恵」 第70回日本伝統工芸展(写真提供 : 日本工芸会)
蒔絵螺鈿文箱「天恵」 第70回日本伝統工芸展(写真提供 : 日本工芸会)

2023年に完成した「天恵」は、どこまでもつややかな鏡面のような漆の塗り肌の奥に、さまざまな色、形、質感の金の粒が立体的に重なり豊かな表情をたたえる。

「太陽の恵みを受けてブドウの実がたわわに実り、その周辺でリスたちが遊ぶ様子を表現しました。動植物を育てる陽の光の力強さ、そして、人がその恩恵を受けているということが伝わればとの思いで作りました」

制作には非常に長い時間を要する。まず基礎作りとして、素地である木に補強するために麻布を貼り、その上に漆下地を付けては乾かし、研ぎ、さらに漆液を塗ることを繰り返す。そこから装飾の工程に入る。

「天恵」では、葉や陽の光のデザインを漆で描き、そこに粉筒(ふんづつ)という道具を指で弾いて金粉をまく。その上に漆を塗り込み固まったら、今度は木炭で文様を研ぎ出す。ブドウとリスの部分は貝を用いた装飾「螺鈿(らでん)」で表現している。貝を文様に切り取り、塗装面に貼り、さらに木炭で研磨して仕上げてあるのだ。

粉筒


「木地に下地を施し、漆液を塗る作業を繰り返していると、あっという間に1年が過ぎていきます。装飾の作業も『天恵』くらいの大きさ(およそA4サイズで高さ10センチ強)だと1年ほど要し、構想を含めるとどの作品でも完成までに3〜4年はかかります。漆は時と共に硬く丈夫に、透明度も増し、500年経っても保存が良ければきれいなままなんです。漆をやっていると時間のサイクルが長く、通常とは異なる時間軸にいるような感覚になりますね」

螺鈿

言葉ではなく行動でものづくりを教えた父

室瀬さんの父は漆芸家の室瀬春二さん。自宅の一部が仕事場で、そこが室瀬さんの遊び場だった。

「7歳か8歳のころ、モーターボートのプラモデルが欲しいと言うと、父が板の骨組みに厚手のボール紙を貼り重ね、そこに漆の代用のカシュー・オイルを塗って船を作ってくれました。モーターボートとは似てもにつかぬ和船でしたが、私はいつもお風呂に浮かべて遊び、以来、工作に興味を持つようになりました。いま思えば、あれは手で物を作るということを、言葉ではなく行動で教えてくれたということなのでしょうね」

漆芸家の六角大壤(だいじょう)さん(後の東京藝術大学漆芸科教授)や増村益城(ましき)さん(1978年に重要無形文化財「髹漆〈きゅうしつ〉」の保持者に認定)など優れた作家がしばしば春二さんを訪ねてやってきた。漆への興味が否応なく高まるなか、室瀬さんは14歳で初めて自ら進んで春二さんの仕事を手伝い、制作の喜びを知る。

「父の仕事を見て育ち、作ることも好きだったので、漆芸家になりたいという思いはずっとありました。でも、それで食べていける時代ではなかったんです。父に相談しても『漆芸家では食えない』と言うだけ。高校の先生方に相談すると『古臭い伝統なんて消える』とみんなもう大反対。『それなら消えるところを見届けてやろう』と腹をくくりました」

東京藝術大学に入学し、その報告のために春二さんの師匠であった松田権六さん(1955年に重要無形文化財「蒔絵」保持者に認定)のもとを訪れる。

「その時の緊張感はいまでも忘れることができません。孫の歳ほどの私に、半日かけて漆の話を温かくしてくださいました。それ以来、松田先生は私の理想の人です」

そのとき松田さんが室瀬さんに伝えたのは、“どう作るか”ではなかった。作る心構え、つまり“ものづくりの哲学”だった。

「先生の教えの一つに、『人に学ぶ、物に学ぶ、自然に学ぶ』という言葉があります。“人”は、師匠や先輩などの先人を示し、“物”は過去の作品や先人の遺した技術のこと、“自然”は漆をはじめとした動植物や自然のエネルギーのことで、それぞれから学びなさいという意味です。私は漆芸の表現を追究するなかで、この言葉を常に心に留めてきました」

“どう作るか”、つまり制作技術については、父・春二さんから基礎を習い、大学院で師事した田口善国さん(1989年に重要無形文化財「蒔絵」保持者に認定)からは、応用としてさらに多様な蒔絵表現を学んだ。

「技術は教わるものではなく、作るなかで失敗を繰り返し、体験を通じて身につけていくものだと思います。実は失敗こそが財産なんです」

伝統とは革新の積み重ね

そうして日々制作に向き合っても、漆芸家として生計を立てることは容易ではなかった。

「作品をある程度購入してもらえるようになったのは、50歳前後からです。それまでは作品制作だけでは食べていけず、昼間は文化財の修理や、漆芸を教える仕事をして、夜に作品を作るという生活を続けました。それでも、好きなことをできるのがいちばんいいと思っていました」

そんななか室瀬さんは、文化財保存の仕事から大きな学びを得る。総勢18人の研究者と技術者を率いて、鎌倉時代の国宝「梅蒔絵手箱」の復元模造制作を手がけたときのことだった。

「それまで蒔絵の金地は金色をむらなく仕上げるべきものと思い込んでいましたが、梅蒔絵手箱の復元制作を通じて、鎌倉時代の蒔絵では金の粒の素材感が生かされていることに気づきました。それで、どんな表現でもアリなんだなと自由に発想できるようになりました」

復元が完成したのは、プロジェクト開始から3年後の1998年。48歳のときだった。これを機に室瀬さんは、金の塊を自ら削り意図的に粒子の形や粗さが異なる金粉を作り、それを用いて立体的な表現を試みるようになる。

そうして新たなスタイルで制作に挑んだ蒔絵螺鈿八稜箱「彩光」で2000年、室瀬さんが50歳のとき、日本伝統工芸展で東京都知事賞を受賞した。

蒔絵螺鈿八稜箱「彩光」第47回日本伝統工芸展(写真提供 : 日本工芸会)
蒔絵螺鈿八稜箱「彩光」第47回日本伝統工芸展(写真提供 : 日本工芸会)

「1200年以上続く蒔絵の文化では、古来より黒と金のモノトーンを基調に表現されてきました。その伝統を踏まえた上で、『彩光』では螺鈿や乾漆粉(かんしつこ)という表現で色彩を加え、さらに、さまざまな粒子の金粉を幾重にも重ねることによって奥行きのある表現を目指しました。

伝統工芸とは古くからの技術や美意識をそのまま守るものと思われがちですが、基礎となる技術は変わらなくても、素材や表現が変わっていく。つまり伝統とは革新の積み重ねだと思っていて、だからこそ、これまでにない新しい表現を生み出せたこの作品は、私にとっては大きな意味を持ちます」

2008年に室瀬さんは重要無形文化財「蒔絵」の保持者に認定される。認定にあたっては、「伝統技法を踏まえながら独自の工夫を加え、多彩な色彩表現を取り入れた制作を行う。その作品は、現代的感性が表現された端正な意匠と構成を特色とし、気品と風格を備える」(08年文化庁の報道資料から)との評価を受けた。

芸術は精神を、そして世の中を豊かにするもの

室瀬さんは、漆芸の文化を伝えることにも大きな力を注ぐ。07年、大英博物館の展覧会に出品し、講演やデモンストレーションを行ったことをきっかけに、ロンドンを拠点に漆文化の発信を始める。ヴィクトリア&アルバート博物館では、20年以上にわたり漆工品調査や修理技術の指導にあたっている。

また、子どもたちに漆に出会ってもらう機会をつくろうと、毎年日本で子ども向けのワークショップも開催している。この活動は東日本大震災をきっかけにスタートし、12年から現在まで続く。

「私個人ができることはたかが知れています。でも、漆芸や工芸のすばらしさが広まり伝われば、私がいなくなった後も漆文化は続いていきます。だからこそ、日本の文化を伝えていくことも私の大切な仕事だと思っているんです」

制作、そして文化の伝承に日々奔走する室瀬さん。その情熱の源はどこにあるのか。

「漆でなかったらここまでやらなかったかもしれません。漆は本当にすごいんです。まずは本物の漆器に触れてみてほしい。しっとりしながらさらりとしていて、この肌触りの良さだけでも気持ちを和らげてくれると思います。芸術は精神を豊かにするものです。一人でも多くにそのことが伝われば、世の中が豊かになると信じています」

取材・文:杉原由花、POWER NEWS編集部
写真:森政俊撮影 (日本工芸会提供の写真を除く)

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