冷戦終結後のアジアと日本:アジア政経学会歴代理事長インタビュー

冷戦終結後のアジアと日本(4) 「百見は一聞に如かず」―中国経済の実態理解:中兼和津次・東大名誉教授

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日本のアジア認識、アジアとの関係性の変遷について、歴代のアジア政経学会理事長に振り返ってもらうインタビュー企画。第4回は中兼和津次・東大名誉教授に、 ご自身の中国経済の実態研究などを振り返ってもらった。(聞き手:丸川知雄・東大教授)

中兼 和津次 NAKAKANE Katsuji

東京大学名誉教授。専門は中国経済論。1942年生まれ。アジア経済研究所研究員、東京大学教授、青山学院大学教授を歴任。1995-97年にアジア政経学会理事長。

アジア情勢の変化と学界動向

丸川 知雄 先生がアジア政経学会の理事長でおられた1995年から97年ごろ、アジア情勢や日本のアジア研究でどのようなことが問題になり、どのような議論があったのか、まずお伺いできたらと思います。

中兼 和津次 正直言ってあまりよく覚えていないというか、私はあまり関心がなかったというか…。ただ、後の議論に関係するかもしれませんが、アジア政経学会の学会活動とアジア情勢というのが、ぴったりと対応しているとか、即応しているとか、そういう感じではなかったような気がします。

例えば、中国の改革開放は、実質上1978年、79年、80年あたりから本格的に始まるわけです。今から考えますと、それは非常に大きな世界史的事件、あるいはアジアにおける大きな事件だと思います。しかし当時の『アジア研究』をパラパラめくってみても、別に中国の改革開放特集をやったということもないし、あるいは掲載論文を見ても、誰一人とは言いませんけど、中国の改革開放を真正面から取り上げたことは、私の記憶の限りではあまりありません。

アジア経済への見方の変化

丸川 1990年代といえばアジア経済の成長が見られ始めた時期かと思います。

中兼 学会活動とアジア研究全体との関係から言いますと、少なくとも経済学の分野では、とりわけ開発経済論的な視角からすると、当時から少しずつアジア経済に対する見方が変わってきたのではないか。1980年代末あたりか90年代初めぐらいから少しずつですが。私の印象ですが、一つの大きなきっかけとなったのは、世界銀行が出したThe World Bank, The East Asian Miracle: Economic Growth and Public Policy, World Bank Policy Research Report, Oxford University Press, 1993という有名な本の刊行ではなかったかと思います。これは、世界銀行著、白鳥正喜監訳、海外経済協力基金開発問題研究会訳『東アジアの奇跡―経済成長と政府の役割』(東洋経済新報社、1994年)として日本語にも訳されています。

中兼和津次・東京大学名誉教授
中兼和津次・東京大学名誉教授

世銀の主張というのは、従来の開発論的な思考を少し変えて、要するに東アジアがなぜ経済発展したのかという点に関して、政府の力があることを指摘したのです。従来の経済学あるいは開発経済学は、市場中心の経済学だったが、それだけでは東アジアの発展をうまく説明できないのではないかということだったのです。

一例として、日本の産業政策は比較的うまくいったのではないかという論調がありまして、それが従来の開発経済にある種の新しい視点を投じたという面がありました。例えば、1994年の高崎経済大学でのアジア政経学会東日本大会で、この東アジアモデルというのが話題になったような記憶があります。ここでいう「東アジア」は日本、韓国、台湾、そしてASEAN(東南アジア諸国連合) の国々が中心で、中国は入っていないのです。その東アジアがなぜ急速に発展しているのかについての議論が展開されて、そこには独特な経済発展があるのではないか、特に政府の役割とか、政府と市場のあり方とかが問題になってきた。そのような論調が少しずつ学会の研究にも反映されてきていた。つまり、韓国経済とか、台湾経済とか、そういうものを少し積極的に見るというような見方が出てきたのではないかということです。

中国経済の長期展望:農業と工業との関係性

丸川 先生ご自身のご研究について改めてうかがいます。1995 年に理事長になられる直前に、『中国経済論―農工関係の政治経済学』(東京大学出版会、1992 年)という大著を出されました。

中兼 あれは私の事実上、2番目の単著です。これには二つの部分があって、最初は農工間資源移転に関する研究です。これは完全に師である石川滋先生(※1)のアイデアを引き継いでいます。石川先生は、経済が発展してくるにしたがって、農業がどれだけ非農業部門、具体的には工業部門に資金を提供するかという議論を、中国を含めたアジアのいくつかの地域に対して展開されたわけです。

ただ、この作業を始めた時、実は石川先生自身が似たような作業をしていたとは知らなかったのです。石川先生がすでに1950年代60年代と対象にされていたので、ならばこちらは80年代まで期間を延ばして農工間の資源移転を研究しようということにしました。80年代になると少しずつ中国のデータ、例えば統計年鑑などが出るようになったので、農業と工業、非農業との間の資源移転、あるいは資金移転を計量的に押さえてみようと、私もいろいろやってみました。私は「石川仮説」を実際に実証する形になったのです。

ここで仮に「石川仮説」と呼んでいるのは次のようなことです。開発途上国が経済発展するには、従来言われているように、農業部門が公共部門とか非農業部門を助ける、すなわち資金を提供するのではなくて、むしろ農業部門を工業部門が助けなければならないということが言えるのではないかということ。これを「石川仮説」と仮に呼んでいました。

実は、この議論を後からいろんな人が展開して、むしろ否定的な議論が多くなっていき、やはり工業部門を農業部門が助ける、つまり農業部門が搾取されているのだと言われました。こちらは、それに対して反論するわけですが、私の感じとしては、どういう尺度で農工間の資源移転を図るかという点によって結論は変わってくるのであって、だからこそまだ議論の決着はついていない気がしていました。その作業をこの本の前半でやったのです。

「百見は一聞に如かず」―人民公社をどう理解するか

丸川 後半部分の主題は農業の集団化でした。

中兼 はい。この本は、前半が一種の純経済学的な分析、後半はもちろん経済学が基本ですけど、農業集団化が存立するための条件を、一種の制度論的な枠組みで探ったのです。具体的には、中国における農業集団化の展開過程に関する研究を取り上げました。特に中国の集団農業がどのように作られ、集団農業にはどういう問題があるのかということを議論しました。

そこで非常に役立ったのは、中国黒龍江省から帰国した残留孤児へのインタビューでした。私はアジ研(アジア経済研究所)時代とアジ研をやめたあとの数年間に、残留孤児たちにインタビューしました。彼らは中国の人民公社社員だった人たちなのです。全部で三十数人にインタビューして、いろいろ話を聞き取ってみると、どうも今まで言われていたような人民公社像と現実は違うのではないか、人民公社論というのを作り直さないといけないと感じたのです。その一環として、中国が1950年代初めから展開した農業の集団化政策というのは、実は非常に大きな問題を抱えていたということを追究したわけです。

中兼氏(左)と、聞き手の丸川知雄・東京大学教授
中兼氏(左)と、聞き手の丸川知雄・東京大学教授

「百見は一聞に如かず」―人民公社をどう理解するか

丸川 人民公社にいたことがある「残留孤児」にインタビューされたわけですね?

中兼 先ほど言いましたように、このころちょうど中国で情報提供・情報公開が始まりました。1984年当時は一橋大学にいたのですが、天津の南開大学に2週間ぐらい行きました。そこの経済研究所の図書室には、私が今まで知らなかったような内部文献だとか内部資料だとかがたくさんあり、農業集団化関係の調査資料もありました。写真に撮ったりコピーをしたりして集めた記憶があります。これが『中国経済論』の後半部分の制度論の方の資料となりました。この資料の話をすればエンドレスというか、キリがありません。

私は1978年に、今はもうなくなった雑誌ですが、筑摩書房が出していた『展望』(第236号(8月号))に2ページのエッセーを書いたのです。そのタイトルは「豆かす隊長の苦悩」と言うのですが、私が書いたエッセーの中でこれが一番よくできていると自画自賛しています。その最初の出だしが、「百聞は一見に如(し)かずというけれども、百見は一聞に如かず」でした。要するに、当時の人民公社を100カ所見ても、中国の人民公社から実際に帰国した人に、その人のいた1カ所について、1回聞くことにはかなわないという意味なのです。実際彼らの体験を聞いてみると、当時それまで日本で紹介されていた人民公社像というのは理想像(モデル)にすぎなかったということが分かります。よくモデルとマドル(muddle、混乱)という言葉を使いますが、要するに中国が公式に言っているのはモデルで、われわれが実際帰ってきた人から聞いてみたらマドルなのですね。そこにはドロドロした現実があるわけです。

どうして人民公社員はあまり積極的に働かないのかと聞いたとき、ある人ははっきり言いました。「朝呼ばれたから行くのだよ」と。なぜ行くのですかと聞いたら、「点数もらうために行くのだよ」と言いました。あるいは、人民公社の畑がありますが、近くの森の中にこっそり隠し田を作るのですとも聞きました。中国語では「黒田」といいます。そこで秘密耕作をする。要するに公に分配されている食料が足りないものですから、そこで食料を作るというのです。ときどき、上の人民公社の役人が来て検査する。「お前のところでこういうことないか」と言うと、ある人がうっかりばらそうとする。そばにいた人が黙っていろと言って、脚を蹴ると言うのです。これが現実なのだというのが分かって、私はこの百見でなく一聞というのが非常に刺激的だという気がしたのです。

インタビューは、2023 年2月4日、nippon.com において実施。原稿のまとめを川島真・東大大学院教授が担当した。『アジア研究』(69巻4号、2023年10月)にインタビュー記録の全体が掲載されている。

バナー写真:日本のメーカー(ヤンマー)から贈られたコンバインを人民公社の人たちの前で操作する公社員=1974年11月、北京市郊外の中日友好人民公社(共同)

(※1) ^ 石川滋(1918-2014)は一橋大学名誉教授で、開発経済学、中国経済研究を専門とする。

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