冷戦終結後のアジアと日本:アジア政経学会歴代理事長インタビュー

冷戦終結後のアジアと日本(3) 「貧困のアジア」への問い:渡辺利夫・東工大名誉教授

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日本のアジア認識、アジアとの関係性の変遷について、歴代のアジア政経学会理事長に振り返ってもらうインタビュー企画。第3回は渡辺利夫・東工大名誉教授に、 1990年代前半のアジアの情勢、日本のアジア研究の動向などを振り返ってもらった。(聞き手:佐藤百合・国際交流基金理事)

渡辺 利夫 WATANABE Toshio

東京工業大学名誉教授、拓殖大学顧問。専門は開発経済学、現代アジア経済論。1939年生まれ。東京工業大学教授、拓殖大学学長、総長を歴任。1993-1995年にアジア政経学会理事長

グローバリゼーションの時代とアジア

佐藤 百合 渡辺先生は1993年から95年までアジア政経学会の理事長でいらっしゃいました。90年代前半の時代のアジア情勢、認識、それを踏まえたアジア研究の動向について、まずお伺いしたいと思います。

渡辺 利夫 ひとことで言うと、アジア全体が活力に満ちていた時代だと思うのです。私がアジアに関心を持ち、この地域のことを勉強してみようかと思い始めた頃、「貧困」と「停滞」がアジアを語るキーワードでした。人口が過剰で耕作可能な面積が限られていて、食糧の単位面積当たりの収量は極めて低いというのが当時の実情でしたし、飢餓線上の国々がいくつかありました。絶対的貧困(Absolute Poverty)などという言葉が、開発論の世界の中でごく普通に語られていた時代でした。しかし、私が理事長だった1993年から95年、アジアは大変な活況の時期に入りました。メシが食えるようになった、ということです。これはグリーンレボリューション(緑の革命)の結果、瞬く間にアジア全域が米の改良品種を導入、これを普及し拡大させることによって、アジアには米の純輸入国がなくなってしまったのです。このような農業の発展は、おそらく政治的な安定にもつながっていたと思うのですけれども、その上に、工業化が大変な勢いで進んだように思います。

佐藤 1970年代から80年代ですね。

渡辺 そうです。そしてアジアが、世界全体におけるプレゼンスを大きくしていく。貿易パートナーとしてアジアが大事だということになったのです。のみならず、先進国の多国籍企業を中心に、投資しても収益が上がる地域がアジアだと見なされるようになり、ここに外資が集中して、アジアが急速に発展していくことになりました。

この時期、中国もまた改革開放を図っていました。私が理事長をやった少し前の時期、韓国、台湾、香港、シンガポールなどをNICSと言っていましたよね。「Newly Industrializing Countries」です。そのうち、これは「Newly Industrializing Economies(NIES)」と言い換えられました。あの頃は、まさに「Emerging Country」という感じだったわけです。新興、まさに燃え上がってくる感じでした。「Industrializing」は「産業化」と訳すよりも「工業化」と訳した方がいいと思います。製造業の生産基地ということです。このNICS、NIESには、すぐ後にインドネシアが入ってきました。当時、インドネシアなどASEAN諸国の発展が日本人の想像よりもっと速いということが伝えられるようになりました。NICS、NIES、ASEAN、それに改革開放路線に入った鄧小平の中国が出てきたわけです。

この時期のアジアの国の工業化には特徴がありました。第一に、アジア諸国が自分の力でグリーンレボリューションを引き起こしたこと。第二には、貿易投資を通じて、まさにグローバリゼーションの波に洗われて大変な発展をしたこと。この頃からグローバリゼーションという表現が、流行り言葉になった。そのグローバリゼーションの波に洗われて、そこから大きなメリットを得て発展したのがアジアだったのです。

渡辺利夫・東京工業大学名誉教授
渡辺利夫・東京工業大学名誉教授

アジア通貨危機

佐藤 しかし、そのグローバリゼーションにもリスクがあったということですね?

渡辺 グローバリゼーションからメリット得ていながら、同時にグローバリゼーションのリスクにも激しく揺さぶられたのがアジアだったとも言えます。1997年の夏に、タイを震源地とする経済危機がアジア全域を襲いました。インドネシアは見るも無残に、その震源地であるタイよりも大きな影響を受けました。そして、IMF(国際通貨基金) から屈辱的な条件を付した融資を受け、どうにか立ち直りました。高成長のアジアを見込んで大量の投資がなされていましたが、その投資の相当部分が短期融資でした。株式とか不動産とかオフィスビルとか、そういうものに投資してもうけた人たちが多くいたわけです。要するにアジアの経済がバブル化していたのですが、バブルはバブルであるがゆえに崩壊して、アジアの屋根がドスンという音を立てて落ちたわけです。そこから世界のアジア研究者たちは、日本人も含めて、アジアについて非常に悲観的な見方をするようになったのです。

アジア諸国は縁故資本主義(Crony Capitalism)だからこのような結果になるのだ、などといういい加減な意見を、アジア研究をやってきた人が言い始めました。私は耳を疑いました。「Crony Capitalism」などという、そんなビッグワードでバブル崩壊のことを語るような学説が的を射ているとは当時の私には思えませんでした。

アジア諸国は、ある意味、それぞれの政策でこれだけ発展したのだから、通貨危機に対してもそれぞれ次の手を用意しているはずだと考えるべきでしょう。韓国が一番初めに、改革をラディカルに次々と行いました。それでアジアの国々は97年に経済危機があったものの、98年から成長率はポジティブになっていきました。

佐藤 V字回復と言われましたね。韓国とタイはV字回復しましたが、インドネシアは98 年にスハルト体制が崩壊して、回復まで少し時間がかかりました。

渡辺 国によってその回復にはばらつきがあるのは致し方ありませんが、むしろこの試練によって、アジア経済はより一層強靭(きょうじん)になったのではないでしょうか。現在の成長率は、あの頃に比べれば高くはありません。それでも随分タフな経済になってきたなという印象は持っています。

韓国でも、IMFが入る前に自らIMF改革をやろうとしました。インドネシアのスハルトは、IMFの専務理事との屈辱的な写真がニューヨークタイムズに載っていましたが、韓国の金大中は自ら極めて積極的にリストラクチャリング、財閥解体をやりました。これについてはさまざまな評価がありますが、改革によって体力が充実したことは事実です。成長率は下がっても、その分だけギュっと筋肉質になったように感じます。今の韓国経済について、日本人には「韓国嫌い」が多いので、いろいろなことを言う人がいますが、私は日本のジャーナリズムが伝えるほど脆弱な経済だとは思いません。

貧困と停滞のアジア

佐藤 1990年代にグローバリズムの時代になり、最初はそれに乗ったアジアの経済発展があって『東アジアの奇跡(The EAST ASIAN MIRACLE: Economic Growth and Public Policy, World Bank Research Report, 1993)』という世界銀行のレポートも出たのですが、グローバリズムの負の側面が出ると、手のひらを返したようにアジアのレピュテーションが下がりました。それに対して先生は、制度改革を通じて鍛えられた部分を評価しておられるのですね。

渡辺 大いに評価できますね。統計数値はアジアの奇跡、アジアのミラクルを顕示しているのではないでしょうか。私は韓国からその分析を始めたのですが、これがアジアの開発モデルの基本だと思います。ラテンアメリカやアフリカにモデル化できるものがあるとは思えないのです。時間があれば、日本のモデルがアジアにいかなる影響を与えたのかということも考えたいのですがね。

佐藤 韓国の成長から始まり、中国がその後で目立つようになると、先生はライジングチャイナへと視野を広げていかれました。それが1990年代から2000年代です。

渡辺 あの頃、自分で言うのも変ですけれども、「いい仕事をしたな」という感じがします。中国が趙紫陽の時代に、輸出志向型の発展という言葉は使ってはいませんけど、そうしたものをやりたかった。「沿海地域経済発展戦略」ですね。それで成功している韓国をモデルにしたいということになるのです。ところが、中国には当時ほとんど韓国研究者がいなかったのです。韓国の輸出志向工業化モデルが新しい開発モデルだとして推奨している私のような者に白羽の矢が立って、たびたび中国に出かけることになりました。

上海の復旦大学、北京の現代国際関係研究所などでそれぞれ長いことレクチャーをしました。彼らは必死にノートに書き留め、私の韓国経済研究を中国語に訳すなど、ずいぶん熱心にやってくれました。そうした意味では、私自身、中国の変化に指くらいは突っ込んだっていう気持ちがあります。1990年代のことですが。自分としては、韓国研究を中国に持ち込んだという自負があります。私だけがやったわけじゃないでしょうけれども、気持ちとしてはそんな風に残っています。

渡辺氏(左)と聞き手の佐藤百合・国際交流基金理事
渡辺氏(左)と聞き手の佐藤百合・国際交流基金理事

成長のアジア 停滞のアジア

佐藤 1990年代、理事長を務められた時代から2000年代にかけ、アジア経済の変化を体感されながら、それを研究としても広げられ、アジア通貨危機とは何だったか、現在起きていることは何かということを分析の対象にされていたということですね。

渡辺 私には『成長のアジア 停滞のアジア』(東洋経済新報社、1985年・講談社学術文庫、2002年)という若い時に書いた著作があります。

佐藤 1985年に出された本ですね。これはもうアジア研究、開発経済学の学徒はほとんど皆手にしています。

渡辺 ずいぶん早かったと思うのですが、この本は、当時日本で「停滞のアジア」が主流だったことへのアンチテーゼだったのです。例えば、有名な当時の学者に矢野暢さんという方がおられて、彼の設定したテーマが「アジアはなぜ停滞を続けるのか」であり、まさにアジアの停滞要因を究明することがアジア研究の肝だと考えていたようでした。私は、それに対して、いや、成長しているNICSだってありますよ、と伝えようとしました。

私は「中進国」という言葉を使いましたが。すなわち、停滞のアジアと同時に成長のアジア、というものがあるのだ、そして停滞のアジアもだんだん成長のアジアの方に移っていく、ということだと主張しました。貧困と停滞のアジアというイメージでしか語られないアジア、それでいいのかと物申したくなったのです。「渡辺さん、あのような国が発展するってよく言えたね」と、言われはしなくても、そのように思われていたでしょう。ちょっとひどくなると、「渡辺さんは楽観主義的」などという皮肉も出ました。

インタビューは、2022年12月22日、nippon.com において実施。原稿のまとめを川島真・東大大学院教授が担当した。『アジア研究』(69巻3号、2023年7月)にインタビュー記録の全体が掲載されている。

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