冷戦終結後のアジアと日本:アジア政経学会歴代理事長インタビュー

冷戦終結後のアジアと日本(1) ウクライナという挫折 :平野健一郎・東大名誉教授

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日本のアジア認識、アジアとの関係性の変遷について、歴代のアジア政経学会理事長に振り返ってもらうインタビュー企画。第1回は平野健一郎・東大名誉教授に、冷戦終結直後の学会の潮流、国際交流のあるべき姿などについて聞いた。(聞き手:川島真・東京大学大学院教授)

平野 健一郎 HIRANO Ken’ichirō

東京大学名誉教授。専門は国際関係史、国際文化論。1937年生まれ。東京大学教養学部教授、早稲田大学政治経済学部教授などを歴任。1989-1991年にアジア政経学会理事長。

経済発展と民主化の関係

川島 真 先生がアジア政経学会の理事長でいらした1989年から91年までの時期は世界史的な転換点だと言われています。当時、先生はどのように世界を見ていらっしゃいましたか?

平野 健一郎 89年の初めちょうど昭和が平成になり、天安門事件があり、冷戦が終結しました。調べてみると、ビルマがミャンマーに改名したのがこの年で、アジアの情勢も冷戦の終結に連動する形で随分動き始めるところだったと思います。APECの閣僚会議もこの年に始まっています。こうした変化は、学会の同年配のアジア研究者たちは気にしていたに違いないのですが、少なくともアジア政経学会が直接それに反応するといったようなことはなかったと思いますね。

川島 当時の学界で主要な課題はどのようなものだったのでしょうか。

平野 当時の学界、例えば政治研究者と経済研究者が集うアジア政経学会では、政治と経済との関係、特に経済発展と民主化との関係などが議論されていたと思います。そして、経済発展が民主化に、あるいは民主化が経済発展に結びつくということが現実になるのではないかとも思いました。いま振り返るとそれは勘違いであったということになるのでしょう。でもあのときは多くの人がそういう考え方で、熱心な議論が行われていた、そういう稀有な時代だったと思います。

例えば、渡辺利夫(※1)さんが当時、若い世代をリードする形で経済発展論を進めて、経済と政治のつながり、民主化が経済発展を導くというクリアな理解ができるという議論を展開していました。「雁行形態」という理論です。それが、いつの間にか民主化が経済発展と関係があるというのはデータ的に証明できないという反対論の急先鋒になられました。面白い時代でしたね。

アジア研究のゼミ・学界の風景の変化:留学生の存在

川島 1980年代から90年代の時期に日本のアジア研究の「風景」には何か大きな変化がありましたか?

平野 90年代に入ると、大学のゼミにはかなりの数の留学生が混ざっていました。私がアジア政経学会で研究者としてのデビューをさせていただいた戦後初期には、留学生はほとんどいませんでした。もうアメリカの占領下ではありませんでしたが、冷戦時代でしたし、アジアは激しく動いていましたが、それに直接触れる機会はまだなかったわけです。まとめていいますと、アジアとのコンタクトがある前のアジア研究のグループに私が入れていただいていたということなのです。それが70年代から変化を始めて、留学生、特にアジアからの留学生がゼミの中に混じってくれるようになったというのが、今から振り返っても大きな変化だと思いますね。台湾出身の方々と朝鮮半島出身の方々は例外でしたが。他方、われわれの方も誰もまだ大陸に勉強しに行っていない、そういう時代ですね。

平野健一郎・東大名誉教授
平野健一郎・東大名誉教授

戦前以来のアジア研究の戦後との連続性

川島 戦前のアジア研究と戦後の日本のアジア研究との連続性、断絶性についてはどう見ていらっしゃいますか?

平野 私の場合はちょっと風変わりなところがあって、戦前日本の「アジア研究の学知」の影響を一番感じたのはJ. K. フェアバンク先生(※2)からだったと思います。日本人でない中国研究者が日本の戦前の学知をおろそかにしてはいけない、ということをいわれていたという、今の方々になかったかもしれないそういう環境にあったということです。

当時、私は満洲事変の研究を一生懸命やろうと思っていて、それ以外に何もできなかったのですが、今振り返ってみると、その満洲研究を私が目指したことに、フェアバンク先生はある期待を持っておられたのだと思います。

アジア研究の方法論の模索というのは、ずっと続いていると思います。第二次世界大戦後の世界的な状況、一言でいえば、冷戦下の世界的な状況からアジアを学ぶ必要が大いに出て来たわけです。しかし、中国を中心に、アジアへ行ってアジアを学ぶことができないという状況がずっとありました。それだけに、中国でアジアを学ぶ、アジア研究の方法論を得られるかどうか、そういう点でおぼつかないところがずっとあったのではないでしょうか。そう考えると、現在の日本のアジア研究は、現在あり得るあり方をしているということなのだと思います。

他方で、アジアへ行ってアジアを学ぶことができないという状況の下で、日本が特殊で、かつ不可欠な地位を占めてきているというところがあります。それは、日本研究がアジア研究の中に含まれないという日本の特殊性という問題があるということです。それを何とか乗り越えないといけないと思うのです。

冷戦終結後の30年をどう見るか:ウクライナの衝撃

川島 先生は、冷戦後の30年をどのように見ていらっしゃいますか?現在が「ポスト冷戦」という時期の終わりだという見方もあるようですが。

平野 そういうはっきりした観察が自分にはできません。けれども、ウクライナだけは、本当に今までの歴史は何だったのか。とりわけアジア研究を中心にして、アジアのあり方を考えてきた人間からすると、日本を筆頭にして、戦争の反省に基づいて新しい歴史を作ろうとしてきた中身をまったく無視したような逆行現象なわけです。それで言葉も出なくなってしまうのです。たとえばアジアの現実をある程度踏まえながら、文化の多元性という見方をしようと提案してきた立場からすると、やはりアジアには共通のものと、それぞれの地域や時代の特徴がある多文化性とが重層をなしているところがあります。一言でいえば、これは素晴らしいことだと思うのです。それが、留学生が日本に集まってくる一つの誘因でもあったのではないかと思うのです。

国際文化交流・国際援助の意味

川島 先生は国際文化交流研究の第一人者でもいらっしゃいます。これまで多くの国際交流や国際援助が重ねられながらも、今回のような事態が生じてしまいました。

平野 多少とも国際交流を実践した人間として申し上げると、今の世界情勢の残念なところは、日本の国際交流活動が問題を解決できなかった、穴を埋められなかったからではないかという反省があります。それはロシアの知識人を一部でもいいから友人にできなかったということです。

日本研究をやるロシア人は昔からいるのです。ちょっとユニークな方々なのですが、能力がすごくあって、日本人もやらないような日本研究をやっているような人がいるわけです。そういう人と手を結んでいたら、少しは違ったのではないかと思うのです。ウクライナについて、歴史に逆行するこの動きを予防できなかったというのが、アジア研究をやりながら、国際交流の重要性に気がついたつもりだった自分の反省点です。何も語る言葉がないというのが反省ですね。

また、1989年に日本は世界最大のODA供与国になりました。ですが、当時学会で議論していたことは、国際援助としての国際協力であること、国際援助の目的を明確化する必要があるということを反映したものものであったと思います。なぜ国際援助をするのか。目的の明確化の努力はあったが、その努力はまとまらなかったということでしょうか。

私は、その頃から国際文化論の方向にはっきりと転換しています。私は国際協力とか国際援助を各国の国家政府だけが自国の国益のために仕掛けるような、そういう状態のままに進めたのではまずいのではないかと思います。国家間の競争の場としてではなくて、それぞれの社会が持っている文化の普遍性と多様性を上手に使った新しい国づくりのようなきっかけにできると良いのではないかと思うのです。そのためには一つの場所、一つの時間を一国が占有するというように持っていくのではなく、重なり合って、協力したり、競ったりするという、そういう国際協力のあり方はないのだろうかと考えたときに、文化だったらそれができると考えたのです。重なり合っても他を排斥しないわけです。というわけで、国際協力論を技術移転論として展開することを試みようとしたのが国際文化論への転進の一つの理由だったのです。

政治力や軍事力の方が文化力を補佐役としてしか捉えない、というのではなくて、それとは異なる文化振興論というのがありうるのではないかと思うのです。「やっぱりソフトパワーだ」といってしまうのもわかりやすいことはわかりやすいでしょうが、政治力や軍事力の補佐役に終わらせるのではない文化の位置づけが、文化の独自の力を発揮させることができるような局面が見つかるのではないかと思います。

聞き手の川島真・東大大学院教授(左)と平野健一郎氏
聞き手の川島真・東大大学院教授(左)と平野健一郎氏

1990年代の中国

川島 1990 年代のことを考える際にやはり中国のことが重要になると思います。先生はどのようにその頃の中国を見ておられましたか。

平野 中国の大国化の兆しを、私なりにはっきりと経験したことは珍しくよく覚えています。96 年でしたか、中国と台湾との間の3回目の危機が生じ(第三次台湾海峡危機)、中国が最終的に引きました。あの瞬間を非常に意味深く思っています。あのときは現在のようではなかったのかもしれませんが、現在につながるような中国の変化があるかもしれないということも思いましたし、同じようなことが続いて起こるかもしれないということも思いました。

それに、遅ればせながら、台湾が大好きになった瞬間でもあったのです。やっぱり中国は大きすぎます。しかし、その大きな清朝が賢い振る舞いをしたこともあったという歴史もありました。たとえばですが、東洋文庫の蔵書を見ながらそういう中国の歴史を察していただく、そういう文化の働きというのはありうると思います。

振り返ってみての後知恵なのですが、そもそも私が研究者を志した、満洲研究、満洲国研究の中に、実は文化の重層性というものが最初から隠れているわけです。そのことは、表面的には、日本が自国の利益のためだけに傀儡政権を構想するというところに表れたわけですし、「五族協和」を満洲国のモティーフにせざるを得なかったわけですが、満洲というところがそうした基盤を持っていたということだと思います。中国を筆頭に、アジアの社会は、複数の次元上でいろいろな地域(部分)に同時に切り分けられる、そういう可塑性といいますか、可能性を持っていて、それを我々は文化の重層性と呼ぶことにしているのではないかと思います。

インタビューは、2022 年9月1日、東京・虎ノ門のnippon.com で実施した。また、『アジア研究』(69巻2号、2023年4月)にインタビュー記録の全体が掲載されている。

バナー写真:1989年6月2日、中国当局による武力介入が起きる直前の北京の天安門広場=中国・北京(AFP=時事)

(※1) ^ 渡辺利夫(1939-)は、東京工業大学名誉教授、拓殖大学顧問。1985年に刊行された『成長のアジア 停滞のアジア』(東洋経済新報社 1985年/講談社学術文庫 2002年)は、「停滞するアジア」というイメージに疑義を呈した。

(※2) ^ John King Fairbank(1907-1991)は、冷戦期のアメリカを代表する中国研究者。ハーバード大学教授。主に19世紀後半の清朝の対外関係史を専門としていた。

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