コラム:私の視点

イスラエルを突き動かす「水への固執」

国際・海外

伊藤 芳明 【Profile】

「伝説のスパイ」の話から始めたい。モサドなどイスラエルの諜報機関は世界的に有名だが、「歴代ナンバーワンのスパイ」として必ず名前が挙がるのがエリ・コーヘンだ。

1924年にエジプトのユダヤ人夫婦の間に生まれたコーヘンは、建国後のイスラエルに移って情報部にリクルートされ、「ベイルート生まれのシリア人」と偽装して61年からシリアの首都ダマスカスに居住。シリア政府や軍の上層部に食い込み、数々の機密情報をもたらした末、65年に逮捕され、絞首台に散った。

その機密情報の一つが、ゴラン高原で秘かに進められていたヨルダン川の流れを変える水路建設現場の位置情報だ。

「中東の水は石油よりも希少」と言われ、水資源の確保が国家の命運を左右してきた。ゴラン高原を水源としてガリラヤ湖を経由し死海に注ぐヨルダン川の水は、イスラエルにとって死活的に重要だった。その水源近くの流れが変えられてしまえば、下流のイスラエルは干上がる。偵察衛星やドローンのない時代だけに、コーヘンの情報のおかげでイスラエルは工事現場を攻撃し妨害できたのだ。

ヨルダン川の水資源をめぐる一連の衝突がアラブ・イスラエル間の緊張を高め、第3次中東戦争(1967年)勃発の導火線となった。イスラエル軍は戦争でゴラン高原の7割を占領して水源地を確保。74年にイスラエル、シリア両国が戦力引き離し協定を締結し、緩衝地帯に国連の監視部隊が駐留してきた。

ところが昨年12月にシリアのアサド政権が崩壊するや、イスラエル軍は混乱に乗じてゴラン高原の緩衝地帯を越えてシリア領内にまで侵入、戦略的要衝のヘルモン山(標高2800メートル)を占領した。カッツ国防相は今年1月28日、ヘルモン山の部隊を視察し、「わが軍は治安確保のために山頂や緩衝地帯に無期限に留まる」と占領恒久化を宣言している。

イスラエル、シリア、レバノン、ヨルダン4カ国の国境が接するゴラン高原は、大阪府ほどの広さ(1800平方キロ)にアラブ系住民2万人が居住する。イスラエルは1981年にゴラン高原の併合を宣言して入植地30カ所以上を建設し、入植者は現在2万5000人を数える。イスラエル政府は昨年12月に「ゴラン高原の人口倍増計画」を作り、1100万ドル(約17億円)を投じて入植者用住宅や学生寮を建設するなど、占領の既成事実化を着々と進めている。

日本を含む国際社会はゴラン高原におけるイスラエルの主権を認めていないが、米国のトランプ大統領は1期目の2019年3月にイスラエルの主権を承認しており、2期目に入ってもこの姿勢を変える可能性はない。

ただイスラエルの水事情は今世紀に入って激変している。海水の淡水化技術の進歩で5カ所の淡水化施設で飲料水の65%を賄い、排水処理技術の進歩で排水の9割を農業用に再利用できる態勢が整った。この結果、ヨルダン川からの自然由来の水の国民1人当たりの使用量は第3次中東戦争時に比べ5分の1にまで減少、水の供給国に変貌を遂げた。

コーヘン処刑などゴラン高原をめぐる確執の歴史から、イスラエルは「水支配」の大切さを身に染みて知っている。だから「水大国」となってなお、ゴラン高原占領に固執し、ヨルダン川西岸やガザ地区のパレスチナ住民の水使用をコントロールし続け、「政治的武器としての水支配」を手放そうとしないのだ。

バナー写真:ゴラン高原の村マジダル・シャムスに近い、イスラエル占領地域とシリアを隔てる緩衝地帯付近を走るイスラエル軍の装甲車=2024年12月9日(AFP=時事)

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    ジャーナリスト。1950年東京生まれ。1974年、毎日新聞入社。カイロ、ジュネーブ、ワシントンの特派員、外信部長、編集局長、主筆などを務め2017年退社。2014年~17年、公益社団法人「日本記者クラブ」理事長。著書に「ボスニアで起きたこと」(岩波書店)「ONE TEAMの軌跡」(講談社)など。

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