コラム:私の視点

偉人のいない国?

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昨今、書店に行っても、ネットで検索しても、少年少女用の「偉人伝」といったものにはめったにお目にかからない。「人物伝」ならあるが、それもマンガ風のものが多い。

そもそも、大人の会話でも、有名人という言葉は聞いても、偉人という言葉はほとんど聞かない。そのせいか、一昔前と違って、政治家が歴史上の「偉人」を引き合いに出して、自らの主張を正当化したり、政治行動の模範とすることは、あまり見られない。

ところが、フランスのマクロン大統領は、しばしば、「偉人」の生誕や逝去何周年といった機会を利用して、演説したり、行事に参加したりして話題となっている。フランスのある週刊誌によれば、そういった「行事」を、シラク大統領やサルコジ大統領は任期中3ないし5回しか行っていないのに、マクロン大統領は既に26回も行っているという。

たしかにフランスは、マクロン大統領でなくとも、「偉人」を国家的にあがめる伝統がある。パリの「パンテオン」にはキュリー夫人、アレクサンドル・デュマ、アンドレ・マルローなどいろいろな「偉人」が「祀(まつ)られて」いる。21世紀になると、女性がほとんど祀られていないという声が上がって、女性の「偉人」だけの特別展が行われたこともあったほどだ。

しかし、それにしても、なぜマクロン氏はそれほど「偉人」にまつわる行事が好きなのか。例えば近年では、ユダヤ人の虐殺の中心地たるアウシュビッツから奇跡の生還をとげた政治家シモーヌ・ヴェイユ女史の逝去にあたっても、マクロン氏は、国家的行事を呼びかけたりしている。

偉人と自らをどこかで二重写しにすることによって、マクロン氏は個人的威信を高めようとしているとの論評もある。しかし、素直に考えれば、とかく分断が顕著になりがちな現代社会で、人々の心をひとつにする方便として、政治指導者が、過去の「偉人」の偉業を国民に喚起して、社会の一体感を少しでも取り戻そうとするのは、自然の成り行きとも言える。

ひるがえって、日本の現状をみると、スポーツ選手の「殿堂」を語る人はあっても、パリのパンテオンのような国民的偉人の殿堂はない。第一、日本の偉人は誰かについて、すぐ、素直に答えられる人は少ないのではないか。それだけ、日本社会は、深いところで一体化しており、「偉人」を政治家がかつぎ出す必要はないということなのであろうか。それとも、国家的偉人を云々するのは、国家主義、ナショナリズムになりがちであるとして、それを好まぬ風潮が染みわたっているからなのであろうか。

バナー写真:シモーヌ・ヴェイユ元欧州議会議長(写真パネル右)とジャン・モネ元欧州石炭鉄鋼共同体委員長(同左)の追悼式典の前に言葉を交わすフランスのマクロン大統領とカステックス首相=2022年1月7日、パリのパンテオン(AFP=時事)

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