蒙古襲来750年(4):海底の元の軍船が物語る「弘安の役」、長崎・鷹島沖は「海のタイムカプセル」
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東路軍と江南軍の合流失敗
「文永の役」(1274=文永11=年)から7年後。皇帝フビライ・ハンの号令の下、元軍は再び日本に襲いかかってきた。1281(弘安4)年のことで、「弘安の役」と呼ばれる。
前回の侵攻で日本を攻めきれなかった元は、戦力強化に向け2方面から船団を進軍させてきた。一つは、元の属国である朝鮮半島の高麗から出発した「東路」軍。もう一つは、元が滅ぼした中国大陸の旧南宋から来た「江南」軍だった。両軍は壱岐(いき)に集結後、九州に上陸し要衝の大宰府を攻めるという青写真を描いていたようだ。
ところが、東路軍が同年5月3日に出発したのに対し、江南軍は1カ月半遅れの6月18日に出発するなど、統率が取れていなかった。東路軍が6月上旬には博多湾に到着しても江南軍は本国を出発さえしておらず、なかなか姿を現わさなかった。両軍が合流していれば、博多湾は「文永の役」当時の5倍近い4400隻の軍船で埋め尽くされたはずと言われる。そうなれば、日本は耐えられただろうか。
実際は遅れを取った江南軍は博多湾に行き着くことはなく、伊万里湾にようやくたどり着いた後、台風に遭って消息を絶ったと言われている。
海底を棒で突いて回る
それから8世紀近い時を経て、沈没した元軍の船がようやく見つかった。
伊万里湾口に位置する鷹島の神崎(こうざき)港では、かねて漁師の網につぼや武具など、元軍の遺物らしき物が引っ掛かることがあった。さらに1994~95年の港の改修工事で大量の遺物が出てきたことから、元軍の船発見に向けた機運が高まり、2005年から本格的な海底考古学調査が始まった。
しかし、一口に「元軍の船発見」と言っても決して容易なことではなかった。
「海底には累々と船が沈んでいるのかなと想定していたけれども、いくら探しても見つかりませんでした。海水に露出した木製の船はフナクイムシに食い尽くされていたのです」。こう語るのは、長年、鷹島沖の海底発掘調査に関わってきた國學院大學研究開発推進機構の池田榮史(よしふみ)教授だ。
海流の関係などで泥の中に埋もれた船であれば、腐食を免れて残っているかもしれない──。池田氏(当時は琉球大学教授)を中心とする調査チームは、そう考え直して音波探査機を使い、05年から数年がかりで海底地図や断層図を作成。不自然な堆積物の反応がある場所を百数十カ所発見した。
そこから先は完全に人海戦術である。池田教授はダイバーと共に海に潜り、そうした怪しい場所を一つずつ鉄の棒で突いて回った。「貝殻だと『ジャリジャリ』ですが、陶磁器など硬い物に当たると『カツン』という音がし、木材の場合は『ズブッ』という手応えがあります」
「やっぱりあったんだ」
調査開始から5年後の2010年、池田教授らはついに船の一部と見られる木材を発見。かなり形が崩れてはいたが、翌11年に「船」と確認した。全長が推定27メートルの1号船だ。「本当に船はあるのかなと疑心暗鬼になりながら、6年間やってきたので、『ああ、やっぱりあったんだ。よかった』というのが正直なところです」と振り返る。
15年には2号船(全長は推定20メートル)を発見。23年には3隻目らしき木材が見つかり、現在、確認中だ。1、2号船はいずれも船底がV字または丸みを帯びた形をして、船室を仕切る隔壁があることから、「江南軍の船」と確認された。大きさの違いは用途の違いとみられる。周辺から見つかった遺物も旧南宋製の陶磁器が多かった。
「陸上だと歴史的遺物の多くはバクテリアや酸素で腐食してしまうが、海底では泥の中に埋もれてさえいれば、当時のいろいろな遺物がそのままパッケージされて残ります」と話す池田教授。鷹島沖の海底遺跡(2012年に国指定史跡)を「海のタイムカプセル」と呼び、さらなる歴史の解明に挑んでいる。
船体から切り離された「いかり」
JR筑肥線の唐津駅から山間部を縫いながらバスに揺られて1時間。入野というバス停で乗り換えて、さらに全長1キロ以上ものつり橋を渡っていくと、佐賀県から長崎県へと越境。人口1700人の鷹島にたどり着く。高台に松浦市立埋蔵文化財センターがあった。目の前には伊万里湾が広がっている。
センター内を案内してくれた同市教育委員会の内野義(ただし)文化財課長は「海底からは元軍の船だけではなく、いかりの一部もいくつか見つかっています」と話しながら、約1メートルの棒状のいかり石を指し示した。元軍の船のいかりは木材をV字型に組み、重りとなる2個のいかり石をくくり付けた構造。
最も大きな石で重さが1個170キロを超える。「木の部分はフナクイムシの食害に遭ってなくなり、いかり石だけが海底に残っていることも多いんです。石はこれまでに36本見つかっています」
だが、1994年の港改修工事では、海底の泥中から奇跡的に腐食を免れた4本のV字型木製いかりが並んで発見されていた。4本はいずれも先端が南を向いた形で見つかっているが、船の痕跡は見当たらなかったという。
池田教授は「台風などすさまじい力でいかりは南から北へ引きずられた末に、船から切り離された」とみている。
いかりを失った船は北へ流されたのだろう。例えば、1、2号船はいずれも伊万里湾の北部(鷹島南岸から200メートル前後の近海)で見つかっている。湾内に集結した江南軍は約3500隻と言われ、「密集した状態で北側へ流れていく中で、もまれてガツンガツンとぶつかり、被害が大きくなったのでは」と池田教授。海底ではバラバラになった船の部材が数多く発見されており、一部は鷹島の海岸にまで打ち寄せられている。
鷹島は、北に開いた伊万里湾の湾口を半ばふさぐような位置にあるので、「防波堤」の役割を果たし、湾内は通常穏やかだ。しかし、地元の人によれば、台風が対馬沖を通り抜けるコースを取ると、反時計回りの暴風が隙間から湾内に入り込んできて、南から北へ激しく吹き上げることがあるという。湾内は当時、まさにそういう状態にあったと推測される。
掃討戦
船は暴風で沈んだことが考古学的にも裏付けられた。では、江南軍兵士たちはどうなったのだろうか。史料によると、その多くは溺死したとみられるが、一部は着の身着のままで鷹島や松浦市の御厨(みくりや)など湾内各地に漂着したという。
池田教授は「史料には、指揮官たちは被害が少なくまだ使える船に乗って、自分たちだけ戻ってしまったとあります。残された部下たちはほとんど武器も持たないまま上陸し、追ってきた幕府軍による掃討戦になすすべもありませんでした(※1)」と解説する。
鷹島には、その戦いを物語るような血生ぐさい地名がいくつも残っている。埋蔵文化財センターの木山智明さんが教えてくれた。「島の北部に鎌倉幕府軍の本陣が置かれました。その西側に位置する阿翁浦(あおうら)で最も激しい戦いが繰り広げられたと言われています」
高台から見下ろした阿翁浦港の周辺は、静かな漁村のたたずまいだ。ところが、その風情にそぐわないような「首崎」「血浦」「胴代(どうしろ)」「地獄谷」といった凄惨な戦いを想起させる地名が、港の周辺にたくさん残っている。当時、港は血で真っ赤に染まったのだろうか。
幕府軍優勢とはいえ、日本側にも被害は及んでいる。島民や歴戦の英雄も命を失っており、島内には数々の石碑や墓が点在している。
高麗の東路軍は退散
一方、博多湾入りしたものの、江南軍に待ちぼうけを食らわされた東路軍はその後、どうなったのか。博多湾沿岸には防塁が張り巡らされていたため、上陸できず、湾入り口に突き出た志賀島(しかのしま)を拠点としたようだ。幕府軍はたびたび夜襲をかけるなどして、東路軍と戦闘を繰り広げた。「長期間いると船は痛み、兵士も病になる」(池田教授)ため、東路軍はいったん補給地の壱岐への移動を余儀なくされた。
その後、東路軍は江南軍からの連絡を受け、長崎の平戸沖でようやく合流したものの、伊万里湾で江南軍とともに台風に襲われ壊滅した──。これが定説ではある。
これに対し、池田教授は「『高麗史』という史料には、東路軍の8割方は生還したとあります。一部は連絡を取るため、伊万里湾に向かったが、多くは壱岐から北上して高麗へ帰国したのではないでしょうか」と推測する。伊万里湾からは高麗の遺物がごくわずかしか出てこないこととも符合する。江南軍が台風によって壊滅的な損害を受けたという情報が東路軍にも伝わり、「戦を放棄したのでしょう」
最強の騎馬軍団を擁するモンゴル帝国はわずか数十年で、ユーラシア大陸いっぱいに版図を広げた。だが、海戦の経験はなく、日本と戦うには属国の高麗や旧南宋に兵力の多くや軍船建造を委ねるしかなかった。宗主国・元のために戦わざるを得なかった高麗兵、旧南宋兵の士気は必ずしも高くはなかったのではないか。元は陸の上では無敵であっても、海を渡るのは不得手であり、台風という不可抗力もあって、おそらく初めてと言えるほどの大敗北を喫した。
そして、再び日本を襲うことはなかった。(第5回=最終回=に続く)
●道案内
- 鷹島:JR筑肥線・唐津駅からバスで約1.5時間。島内には、伊万里湾で発掘された元軍の遺物を保存・展示した松浦市立埋蔵文化財センターがあるほか、随所に「弘安の役」をしのばせる石碑や墓標がある。
バナー写真:鷹島2号沈没船俯瞰(ふかん)図(琉球大学、松浦市教育委員会、撮影・編集:町村剛)
(※1) ^ 伊万里湾で難破した元軍には旧南宋人や蒙古人のほか、博多湾から合流した一部の高麗人もいた。池田教授が史料を基に語ったところによると、かつての友好国・旧南宋の兵士は助命されて博多に送られ、使役されたものの、「文永の役」で戦った蒙古人と高麗人は斬首されたという。