碑に刻まれたメッセージ —先人が残した災禍の記憶— 

「飢饉警告之碑」: 天保の飢饉を教訓にゆめゆめ備えを怠るなと銘記

気象・災害 歴史

豊かな日本は飢饉(ききん)や飢餓とは無縁と思い込んでいないだろうか。地球規模の気候変動や災害が頻発し、紛争や戦争で食料の輸出入に困難が生じる事態があちこちで起きており、食料自給率の低い日本は常にリスクにさらされている。「飢饉警告之碑」は、新たな広がりと重みをはらんで今も私たちに警告を発している。

「飢饉は必ずまた来る」と警告

埼玉県中西部、比企郡小川町勝呂のJR八高線竹沢駅から国道254号を南東方向に約350メートル行った道端に「飢饉警告之碑」がある。ストレートな名前だ。それだけ危機感が強かった証だろう。

1836(天保7)年の状況を伝えるため、地元の名主・吉田金右衛門明敬が1842年に建てたと伝わる。碑の脇の説明石板によると、碑文には「天保7年は夏の初めから秋まで休みなく雨が降り非常に低温のため五穀は実らず蔬菜(そさい=野菜のこと)の成長は悪く収穫は極端に減少した。物価は高騰し住民は飢餓に苦しんだ。こうした飢饉は30年から50年の間には必ず来るものであるから、平素から農事に励み、準備を決して怠ってはならない」と記されている。この碑を建てさせるほどの天保の飢饉とはどんなものだったのだろう。

飢饉警告之碑(写真提供 : 小川町役場)
飢饉警告之碑(写真提供 : 小川町役場)

全国で死者20万~30万人の天保の飢饉

日本が動乱の時代に突き進む引き金になったペリー提督の黒船来航より20年前の1833年。日本各地は大雨による洪水や冷害に見舞われ、東北や関東を中心に大凶作に陥った。米の値段が高騰し貧しい農民や都市住民を困窮に陥れた。幕府や諸藩は「救小屋」を設けたり「囲米(かこいまい=備蓄米)」を放出したりしたが追いつかず、各地で餓死者や行き倒れ、病死者が続出した。

京都に滞在していた画家で蘭学者の渡辺崋山は、食べる物を求めて救小屋に並ぶ人、ガリガリにやせ細ってムシロに寝かされる人、遺骸を入れた桶の前で経をあげる僧侶など、当時の様子を絵に残している。

救小屋。渡辺崋山「荒歳流民救恤図(こうさいりゅうみんきゅうじゅつず)」=天保9年、国立国会図書館デジタルコレクションから
救小屋。渡辺崋山「荒歳流民救恤図(こうさいりゅうみんきゅうじゅつず)」=天保9年、国立国会図書館デジタルコレクションから

1834と35年の夏は比較的天候に恵まれたものの、餓死と病気による働き手不足で生産が回復せず、36年に再び冷害に見舞われ事態はさらに悪化した。米価の暴騰は止まらず、苦難に耐えかねた農民や住民らは米価をつり上げる商人に対し打ちこわしをしたり救済を怠る領主らに一揆を起こしたりした。特に、甲斐(山梨県)や三河(愛知県東部)の一揆は大規模なものだったという。

さらに37年、毎日150~200人を超える餓死者が出ていた大坂では、大坂町奉行所の元与力で陽明学者の大塩平八郎が、庶民を助けようとしない奉行所や商人に怒りを募らせ武装蜂起した。「大塩平八郎の乱」である。

窮民救済を建議したが却下され、蔵書を売るなどして得た資金で独自に救済活動をしていた大塩は、大坂町奉行が貴重なコメを新将軍に献上しようと江戸に送るに及んで蜂起を決意した。乱自体は1日で鎮圧されたが、幕府につながる役人だった武士の蜂起に幕府は衝撃を受け、後の天保の改革につながったという。

1839年まで続いた「天保の飢饉」による死者は20万~30万人に上ったとされている。

中米の火山噴火が事態深刻に

はるか太平洋を隔てた火山の大噴火が事態を悪化させた。気象学を専門とする東北大学名誉教授の近藤純正(じゅんせい)氏のウェブサイトにある「火山噴火と冷夏、いずれ起きる事象に備えて」によると、大規模な火山噴火の後には成層圏まで達した噴煙によって広い地域で異常な朝焼けや夕焼けが見られるという。伊達藩の家臣が付けていた天候日誌には、1835(天保6)年の4月の記述に「このごろ異常な朝焼けが毎日見られる」とある。この年の1月、中米ニカラグアでコシグイーナ火山が大噴火を起こしていた。

近藤博士は「南緯10度以北で発生した火山噴火のうち、大量の火山灰とガスが成層圏まで達した 約20回の大規模噴火では、約90%の確率で東北地方の太平洋側の夏3カ月平均気温が 0.8~2.8度低下した。この低下量は、北半球中緯度の平均気温低下量である約0.2℃ (0~0.4度)に比べて1桁大きい」と指摘する。文字通り桁違いの低温である。天保の時代、人々は海のかなたの山が吹き上げた火煙が、作物の育たない冷夏をもたらしたとは思いもしなかったに違いない。

為政者の施策次第で人災にもなる飢饉

小川町在住で災害に関する碑を調査し、「埼玉県の近世災害碑」という冊子にまとめた高瀬正さん(75)によると、県内に飢饉の碑は11基ある。そのうち「天明の飢饉」(1782~1788年)に関するものが3基、「飢饉警告之碑」を含め8基が「天保の飢饉」の惨状を記録したものだという。東京でも調査し、5基を確認した。

飢饉の碑は国土地理院の自然災害伝承碑の対象ではなく、全国にどれだけの飢饉関連の碑があるかは不明だが、古文書、郷土史などから飢饉の被害は全国に及んでいたことが分かる。それらが語る飢饉の状況から高瀬さんはこう指摘する。「飢饉は長雨や冷夏などの自然災害が直接の原因でありながら、流通や為政者の施策によって被害程度が軽くも重くもなる人災的側面を多分に持っています」。

ロシアのウクライナ侵攻が小麦の輸送を困難にし、干ばつで食料不足になっているアフリカの危機をいっそう深刻にしている状況はまさにそれに当てはまるという。

東京都板橋区赤塚の乗蓮寺にある「天保大飢饉供養塔」。1837年3~11月に板橋宿内で亡くなった423人(うち子ども41人)の戒名が刻まれている
東京都板橋区赤塚の乗蓮寺にある「天保大飢饉供養塔」。1837年3~11月に板橋宿内で亡くなった423人(うち子ども41人)の戒名が刻まれている

ウクライナは過去に自らも、「ホロドモール」と呼ばれる人為的大飢饉を経験している。旧ソ連の指導者・スターリンはウクライナの自営農家(クラーク)の土地を没収し集団農場(コルホーズ)化した。収穫した穀物は政府に徴収され、外貨獲得の手段として輸出に回された。肥沃(ひよく)な土地のウクライナの小麦は非常に有効な輸出作物であった。

1931年、天候不順で穀物の生産が減少したにもかかわらずスターリンは豊作年を上回る目標を課し、農民や住民が食料とする分や翌年の種子として保存する分まで徴収。人々の窮状を無視して穀物の輸出を続けた。食べ物が尽きた人々は次々と餓死していった。1932年までの間に少なくとも400万人、国民の5人に1人が亡くなったとされている。「飢餓輸出」という人道上許されない犯罪行為であった。

パレスチナ・ガザ地区では、ハマスの越境奇襲を引き金にしたイスラエルの侵攻・封鎖が続く。食料などの支援物資は搬入がほとんど認められず、国連世界食糧計画は「110万人が壊滅的な飢餓に直面している」と訴えている。こちらもまた「飢餓輸出」によるホロドモールと並ぶ人為的大飢饉の様相を呈している。

慈善団体から食事を受け取るパレスチナの子どもたち(dpa via Reuters Connect)
慈善団体から食事を受け取るパレスチナの子どもたち(dpa via Reuters Connect)

食料自給率38%なのに食品ロス523万トンの日本

現代日本では、仮に東北地方で米が凶作でも関西地方や九州地方などの米を食べられる流通システムがある。天保の飢饉のような構図にはならないだろう。しかし、それは国内で融通できる量があるからこそ。農水省の2022年度のデータでは、米に関しては99%を国産でまかなえている(カロリーベース)。ところが、他の食料となると全く心もとない。野菜は自給率75%だが、魚介類49%、肉類(畜産物)は17%、小麦だと16%しかない。食料全体の自給率は38%に過ぎないのである。1965年の73%から下がり続けている。日本より国土の狭いドイツ(84%)や英国(70%)、イタリア(58%)に比べても格段に低い。

世界の食料自給率

1月の能登半島地震では輪島市の一部が孤立状態になり食料供給が2週間ほど途絶した。なんらかの理由で貿易に制限がかかり食料が輸入できない事態となればいったい何が起こるのか…自給率の低さの怖さが想像できるかもしれない。半面、日本では食べ物が年間523万トンも廃棄されている(2021年度、農水省データから)。国民1人当たり毎日ご飯を茶碗約1杯分114グラム捨てている勘定だ。消費者庁によれば、これは、世界中で飢餓に苦しむ人々への食料支援量の1.2倍に相当する。

「リスク拡大」は政府も認識 平素からの備え提言

政府はどうとらえているのだろう。農水省が設置した「不測時における食料安全保障に関する検討会」は2023年12月、「取りまとめ」を公表した。根底にあるのは「気候変動や異常気象の頻発化、家畜伝染病の広域的なまん延、感染症拡大による物流網の混乱・停滞、ロシアによるウクライナ侵略等の地政学的事案、主要輸出国による輸出規制など、食料供給を不安定化させる要因が多様化し、その影響も深刻化しており、大幅な食料供給不足が発生するリスクが拡大している」との危機感だ。

「不測時」を、(1)平時と比べ供給量が2割程度減少した状況、(2)国民1人1日当たりの供給熱量が1900キロカロリーを下回る状況を目安として判断。内閣総理大臣を長とする対策本部を立ち上げて出荷・販売の調整や輸入の拡大、生産の拡大、生産転換の養成、割り当て・配給の実施、価格の規制・統制をしていく。ただ、現行の「国民生活安定緊急措置法」や「買占め等防止法」「食糧法」では有効な措置・指示は行えないとして、新たな法制度が必要だとしている。

平時には、国民一人一人が日ごろから備えを行う重要性を理解するよう啓発すべきだという。碑も戒める「平素から準備を怠るな」という言葉は、これまでも耳にタコができるほど聞いてきた言葉だが、それだけ重いものだ。まずは食べ物を捨てないことからだろう。

バナー画像:救小屋。渡辺崋山「荒歳流民救恤図(こうさいりゅうみんきゅうじゅつず)」=天保9年、国立国会図書館デジタルコレクションから

災害 防災 気候変動