山手線「駅名」ストーリー

浜松町 (JY28): 家康にゆかり深い「浜松」の地名を冠し徳川幕府の歴史が盛りだくさん

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小林 明 【Profile】

1909(明治42)年に山手線と命名されて以来、「首都の大動脈」として東京の発展を支えてきた鉄道路線には、現在30の駅がある。それぞれの駅名の由来をたどると、知られざる歴史の宝庫だった。第24回は徳川家の菩提寺・増上寺に最も近いJRの駅であり、また江戸幕府にゆかり深い浜松町。タイトルの(JY28)はJR東日本の駅ナンバー。

昭和初期の海上・陸上輸送拠点

浜松町駅は1909(明治42)年12月16日、烏森駅(現在の2代新橋駅)・田町駅と同じ日に開業した。

1872(明治5)年、新橋(初代)― 横浜間に鉄道が開通した際、線路は通っていたのだが、浜松町付近に駅はなかった。周辺の用地買収に時間を要したため、駅が建つまで35年以上を要した。

田町駅と同じで、当初はすぐ目の前が海という立地だった。バナー写真は開業当初に撮影したもので、石造りの土台の上に木造の駅舎があり、駅舎の向こうに海が広がっていた。

海に面していたことが、駅の発展につながった。1925(大正14)年に日の出埠頭、1934(昭和9)年に竹芝埠頭が完成し、浜松町駅付近まで引き上げ線(臨港線)が通り、海上・陸上輸送の拠点として成長していくのである。1964(昭和39)年に東京モノレールが開通すると、羽田空港の玄関口にもなった。

昭和初期、浜松町・田町両駅の近くに埠頭が相次いで完成し、可動橋の下を多くの船舶が行き来した。『大東京寫眞帖』国立国会図書館所蔵
昭和初期、浜松町・田町両駅の近くに埠頭が相次いで完成し、可動橋の下を多くの船舶が行き来した。『大東京寫眞帖』国立国会図書館所蔵

豆知識を2つ──。

駅の3-4番線ホームの品川寄りの端に小便小僧の像がある。鉄道開業80周年を迎えた1952(昭和27)年、当時の駅長が記念の碑などを設置したいと旧国鉄嘱託歯科医に相談したところ、自宅にあった小便小僧を寄贈されたという。

初代の小便小僧は陶器製。その後、ブロンズ製に変わった。何度か移転も経験したが、港区の手芸グループが毎月、服を着せ替えて“変身”することが話題となり、人々に愛されている。

毎月26日の衣装替えを楽しみに撮影にやってくるファンもいる(PIXTA)
毎月26日の衣装替えを楽しみに撮影にやってくるファンもいる(PIXTA)

1993年には、寝台列車に乗客の自家用車を積んだ貨車を連結した「カートレイン」の発着駅にもなった。目的駅に着いてすぐに自分の車で移動できる便利さが「売り」だったが、サイズの大きい車種は場所をとるため積載できず、車の積み下ろしにも時間とコストを要するためわずか4年で廃止となった。

浜松出身の名主に由来

浜松町の歴史は、徳川家の菩提寺である増上寺の歴史と深く結びついている。もともと千代田区平河町~麹町辺りにあった増上寺は1598(慶長3)年に芝の地に移転。寺の関係者が移り住むようになり、町が形成されていった。

この頃、代官兼町名主(寺・町の筆頭役人)を務めていた奥住久右衛門(おくずみ・きゅうえもん?)にちなんで、「久右門丁(久右衛門町)」と呼ばれていた。1670(寛文10)年制作の『新板江戸大絵図』にある「久右門丁」1〜3丁目は、現在の浜松町2丁目の辺り、つまり駅前である。

(右)1670(寛文10)年『新板江戸大絵図』には「久右門丁」。(左)1849〜62(寛永2〜文久2)年『江戸切絵図』では同じ場所が「濱松町」となっている。2点とも国立国会図書館所蔵
(右)1670(寛文10)年『新板江戸大絵図』には「久右門丁」。(左)1849〜62(寛永2〜文久2)年『江戸切絵図』では同じ場所が「濱松町」となっている。2点とも国立国会図書館所蔵

1696(元禄9)年、おそらく何代か世襲して名主の座にいた久右衛門が退き、「権兵衛」が跡を継いだ。権兵衛は、徳川家康が戦国時代に拠点としていた浜松出身だったという。そのため、久右衛門町は「浜松町」へと呼ばれるようになった。1849〜62(寛永2〜文久2)年の『江戸切絵図 芝愛宕下絵図』には「濱松町」1〜4丁目がある。1700年代以降、町名として定着したのだろう。

以上が、江戸後期に幕府が編纂した地誌『御府内備考』に記された浜松町の興りだ。権兵衛の実在は確認できないが、家康にゆかり深い静岡の浜松に由来するという「説」が残っている。

江戸時代の浜松町には、有力大名の屋敷が軒を連ねていた。『江戸切絵図 芝愛宕下絵図』には海沿いに紀伊殿(紀州藩)、大久保加賀守(小田原藩)、松平陸奥守(仙台藩)の上屋敷、松平肥後守(会津藩)の中屋敷などがあった。

『江戸勝景 芝新銭座之図』に描かれた会津藩中屋敷。「芝新銭座」は江戸初期に浜松町にあった貨幣鋳造所で、18世紀半ばにこの地から姿を消したが、場所の通称として残った。国立国会図書館所蔵
『江戸勝景 芝新銭座之図』に描かれた会津藩中屋敷。「芝新銭座」は江戸初期に浜松町にあった貨幣鋳造所で、18世紀半ばにこの地から姿を消したが、場所の通称として残った。国立国会図書館所蔵

少し内陸側の「愛宕ノ下大名小路」には、松平陸奥守の中屋敷、井上遠江守(下妻藩)、松平隠岐守(伊予松山藩)、秋田安房守(陸奥三春藩)らの屋敷が連なっていた。

「愛宕ノ下大名小路」は現在の浜松町駅から新橋駅を結ぶ道で、「新橋編」でも取り上げた「浅野内匠頭終焉の地」となった田村右京大夫(一関藩)の屋敷は、この小路の新橋寄りにあった。

『江戸切絵図 芝愛宕下絵図』国立国会図書館所蔵
『江戸切絵図 芝愛宕下絵図』国立国会図書館所蔵

「遠山左衛門尉」の名もある。遠山景元=“遠山の金さん”の屋敷だ。景元は本所三ノ橋通(現在の墨田区)の下屋敷が知られるが、愛宕下に上屋敷があったと考えられる。

夭折した将軍の墓所

浜松からとった地名、大名屋敷の密集地──これらを見ても、浜松町が幕府にとって、大切な地だったことが分かる。その重要性を最も物語るのが増上寺である。

増上寺は徳川家が帰依していた浄土宗の七大本山のひとつ。駅から西へ500メートルに、表門である大門(だいもん)がある。2代・秀忠、6代・家宣、7代・家継、9代・家重、12代・家慶、14代・家茂の6人の将軍の墓所がある。

増上寺の全景をとらえた初代・歌川広重画『東都名所 芝神明増上寺全図』国立国会図書館所蔵
増上寺の全景をとらえた初代・歌川広重画『東都名所 芝神明増上寺全図』国立国会図書館所蔵

江戸時代は25万坪余(82万5000平方メートル)の広大な敷地を誇っていたが、明治維新を迎えると多くを接収され、今はその10分の1にも満たない。

紹介したいのは有章院(ゆうしょういん)霊廟二天門だ。有章院はわずか4歳で史上最年少の将軍に就き、在位4年で没した7代・家継の戒名である。二天門は仏教における四天王のうち南方守護の増長天、西方守護の広目天を両脇に安置した門だ。

霊廟の大半は太平洋戦争の空襲で焼失したが、二天門はかろうじて免れ、腐食箇所の改修を経て現在に至っている。

『有章院霊廟二天門』。日比谷通り沿いから見ることができる。(PIXTA)
『有章院霊廟二天門』。日比谷通り沿いから見ることができる。(PIXTA)

家継は幼少・病弱だったことから、政治は儒学者の新井白石と、側用人の間部詮房(まなべ・あきふさ)がつかさどったため、目立った事績はない。「慈悲の心ありて聡明だった」と記す徳川の史書『徳川実紀』と肖像画、そしてこの霊廟が、悲劇の将軍を現在に伝えている。

最後に取り上げたいのが、駅の北550メートル、浜離宮庭園の西側にあるイタリア公園だ。ここには江戸時代末期、洋式兵法を学ぶ鉄砲調練場があった。1841(天保12)年に江川英龍(えがわ・ひでたつ/1801〜55)が設立、佐久間象山や桂小五郎ら維新で活躍した人材を輩出した。

伊豆国韮山の代官だった江川は海防の意識が高く、嘉永6年(1853)のペリー来航に際しては、時の老中・阿部正弘(あべ・まさひろ)の命で、品川に砲台を設置した台場を築いた。さらに、武器製造に欠くことのできない鉄鋼をつくるため、伊豆に反射炉を建造(完成させたのは息子)するなど、幕末を代表する国防の専門家だった。

高層ビルとゆりかもめに囲まれたイタリア公園。(PIXTA)
高層ビルとゆりかもめに囲まれたイタリア公園。(PIXTA)

江川が設立した砲術訓練場だった場所が美しい植栽の本格的なトスカーナ・ルネッサンス様式の庭園となり、その頭上を走る「ゆりかもめ」は江川が築造に携わったお台場へと向かっていく。

【浜松町駅データ】

  • 開業 / 1909(明治42)年12月16日
  • 1日の平均乗車人員 11万2867人(30駅中12位 / 2022年度・JR東日本調べ)
  • 乗り入れている路線 / 東京モノレール、都営浅草線および大江戸線大門駅まで徒歩約6分、JRは京浜東北線に接続

【参考図書】

  • 『東京の地名由来辞典』竹内誠編 / 東京堂出版
  • 『江戸東京名所辞典』/ 笠間書院
  • 『重ね地図で読み解く大名屋敷の謎』竹内正浩 / 宝島社新書
  • 『まるまる山手線めぐり』DJ鉄ぶら編集部編 / 交通新聞社

バナー写真:明治末期〜大正初期の浜松町駅。鉄道博物館所蔵

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    小林 明KOBAYASHI Akira経歴・執筆一覧を見る

    1964年、東京都生まれ。スイングジャーナル社、KKベストセラーズなど出版社での編集者を経て、2011年に独立。現在は編集プロダクション、株式会社ディラナダチ代表として、旅行・歴史関連の雑誌や冊子編集、原稿執筆を担当中。主な担当刊行物に廣済堂ベストムックシリーズ(廣済堂出版)、サライ・ムック『サライの江戸』(小学館)、『歴史人』(ABCアーク)、『歴史道』(朝日新聞出版)など。

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