秋葉原(JY03): 「火除の神」秋葉権現が駅名の起源
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かつては神田川から駅構内まで運河があった
秋葉原駅は1890(明治23)年11月1日、日本鉄道(民営)上野-秋葉原間の貨物列車駅として誕生した。この路線は「秋葉原線」と呼ばれ、駅は正式には貨物取扱所だった。
旅客営業の開始は、日本鉄道が国営化された後の1925(大正14)年11月1日。この日、上野-秋葉原-東京駅の高架線が開通し、山手線は現在我々が知る環状線となった。
旅客運輸のスタートまで35年を要したのは、秋葉原駅が東京有数の貨物の集積地だったからだ。周辺には江戸時代、神田川を航行する舟が積荷を水揚げする河岸(河川の港)があり、米・青果・材木・薪(まき)・炭など、多くの物資が運び込まれた。
享保年間(1716〜36)の一時、幕府が河岸一帯を火除地(ひよけち)、すなわち江戸で大規模火災が発生した際の避難地として接収したが、船運業者たちの強い申し入れによって、一部は蔵地(倉庫地)として認められた(駅名で読む江戸・東京)。神田川の水運に秋葉原の河岸は不可欠だったのである。
明治に入っても水上運輸の拠点だったのは変わらず、秋葉原駅が完成した後も神田川から駅構内まで運河を開削し、川から駅へ直接荷物を搬入したという。
同時に、地方からの物資が大量に秋葉原駅に届いた。1921(大正10)年には、鉄道で東京に運ばれる米の45%が秋葉原に到着したという記録もある(新編千代田区史・通史編)。
また秋葉原駅の約1キロ南の神田多町には野菜を扱う青物市場があった。歴史は慶長年間(1596〜1615)にまでさかのぼり、正徳期(1711~16)には、江戸城へ野菜上納を命じられるなど存在感を示した。
1923(大正12)年の関東大震災で焼失。昭和初期に複合商業ビル・秋葉原UDXが現在立っている場所に移転し、1990年に大田区に移るまで庶民の食卓を支えた。
最初は「秋葉」の字は伏せられた?
行政地名の「秋葉原」は台東区にあり、秋葉原駅が立地するのは千代田区神田佐久間町。駅名の読み方は「アキハノハラ」「アキバハラ」と変遷し、「アキハバラ」に落ち着いたのは1911(明治44)年だった(鉄道ピクトリアル 秋葉原貨物駅の記録)。それまでは、文献によっては「アキバッパラ」「アキバノハラ」の記述も見られる。
秋葉は静岡県浜松市にある「秋葉山(あきはさん)本宮秋葉(あきは)神社」に由来する。ゆえに、「秋葉」の正式の読みは「アキハ」である。
なぜ、浜松の神社の名が、東京の駅名となったのか。
明治維新直後の1869(明治2)年、現在の秋葉原一帯を大規模な火災が襲った。「神田相生(あいおい)町の大火」で、1100戸の家屋が焼け落ちた。この惨事の教訓から、東京府は江戸時代にならって火除地を設置した。現在、駅電気街口の前にそびえる秋葉原ダイビルから、昭和通り沿いのヨドバシカメラマルチメディアAkibaまで広がる、約9000坪(約3万平方メートル)に及ぶ避難地だった。
さらに明治天皇の勅命で、火除の神を皇居(旧江戸城)から勧請して「鎮火社」という社(やしろ)を建てた。火災から数年後に作成された『東京大絵圖』『東京図測量原図』などには、「鎮火社」と記した空き地が確認できる。
この旧江戸城から勧請した火除の神こそが「秋葉権現」、すなわち浜松・秋葉神社にも祀(まつ)られている神仏習合の神だった。徳川家康ゆかりの浜松から分祀し、江戸城の本丸と西の丸の間に位置する紅葉山に鎮座していたという。
『東京図測量原図』等には鎮火社と記されているのみで、「秋葉」の文字は見当たらない。「秋葉」が登場するのは明治10年代になってからで、『迅速測図』などに「秋葉祠(ほこら)」の文字が見え始める。
当初、「秋葉」の名が使われなかったのは、明治政府の「廃仏毀釈(きしゃく)」政策と関係があったのではないかと考えられている。つまり神社の神と寺の仏を分離し、仏を廃する政策を進めているさなか、皇居から勧請した神さまが神仏習合であることは具合が悪かったのだろう。
それが、いつの間にか「秋葉祠」と地図に記載されるようになったのは、秋葉原から約5キロの場所にある向島・秋葉神社(東京都墨田区)が関係していると考えられる。
向島の秋葉神社は、同じく浜松から分祀した火除信仰の神社で、歌川広重の『名所江戸百景』に描かれているように、景勝地として人気があった。江戸の庶民は、火除の鎮火社と聞いて、「向島から秋葉権現が勧請された」と思い込み、「秋葉様がいる原っぱ」を意味する「アキハノハラ」「アキバッパラ」など、好き勝手に呼び始めてしまったのではないだろうか。
庶民に浸透しているなら駅名にしても不便はなかろうと、日本鉄道が正式な「アキハ」に原を「バラ」と読んで合体させ駅名とした。
駅は秋葉祠の敷地を割いて建設したため、祠は約3キロメートル北に移転することになった。これが現在、台東区松が谷にある秋葉神社だ(向島とは別の秋葉神社)。日本鉄道は神社を移転させる代わりに、駅に「秋葉」の名を残したいという思いがあったのかもしれない。
そうして付けた駅名が、今では世界中に知れ渡っていると思うと、何とも感慨深い。
神田川に架かる橋の名称に江戸の名残が…
名所は駅の昭和通り口を出て北に行くと見えてくる、神田川に架かる和泉橋を取り上げよう。津藩主・藤堂家(和泉守)の上屋敷があったことに由来する橋で、明治に入ってから神田和泉町という町名にも採用された。
和泉橋近くの神田川沿いは「柳原土手」といわれ、古着屋が軒を連ねていた。江戸の町人にとっては新品の衣服はなかなか手の届かないぜいたく品で、古着の需要が高かった。1852(嘉永5)年には2000を超える古着商人が江戸におり、その多くは店舗を持たない行商だったが、柳原土手には店が並んでおり、大変なにぎわいだった。
最後に紹介したいのが、和泉橋を渡って右に折れた所にある柳森神社だ。ご祭神は京都の伏見稲荷から勧請した倉稲魂大神(くらいなたまのおおかみ/宇迦之御魂大神[うかのみたまのおおかみ]と同一神)というお稲荷さんで、江戸三稲荷のひとつに数えられた。
柳森神社は富士山信仰の集団「富士講」の拠点でもあった。庶民が旅に出るおカネをおいそれと捻出できなかった江戸時代は、今のように誰もが富士山に登るのは難しかった。そこで信仰集団を組織し、資金を集めて仲間から登山する者を選んで代表として派遣した。その模様は江戸の年中行事を記録した『東都歳事記』に載っている。
また、境内に溶岩や土などを盛ったミニチュアの富士山「富士塚」を造成し、毎年7月1日に上って富士登山の気分を味わう「山開き」のイベントも行っていたようだ(柳森神社の案内板 / 千代田区教育委員会)。
だが、こうしたムーブメントは明治時代以降に廃れてしまう。そこで復興しようという動きがあり、富士講の石碑が1925(大正14)年から1930(昭和5)年にかけて、富士塚が1930年に再建された。しかし、それも第2次大戦後に忘れ去られ、富士塚は1960(昭和35)年に解体。一部の残骸と富士講の石碑が残った。
これらが保存され、千代田区の有形民俗文化財「富士講関連石碑群」に指定されている。千代田区に富士山信仰に痕跡が残っているのは、柳森神社だけである。
【秋葉原駅データ】
- 開業 / 1890(明治23)年11月1日
- 1日の平均乗車人員 19万506人(30駅中7位/ 2022年度・JR東日本調べ)
- 乗り入れている路線 / 東京メトロ日比谷線、つくばエクスプレス。JRは京浜東北線・総武線
【参考図書】
- 『続 駅名で読む江戸・東京』大石学 / PHP新書
- 『鉄道ピクトリアル 秋葉原貨物駅の記録』/ 電気車研究会
- 『新編千代田区史・通史編』/ 千代田区
- 『47都道府県・地名由来時点』谷川彰英 / 丸善出版
- 『山手線お江戸めぐり』安藤優一郎 / 潮出版
バナー写真:1925(大正14)年、旅客営業を開始した当時の秋葉原駅舎。鉄道博物館所蔵