御徒町(JY04): 江戸時代の下級武士の役職が駅名となった珍しいケース
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御徒町はアメ横の入り口であり宝石の街でもある
御徒町駅の開業は1925(大正14)年11月1日で、山手線の駅としては高輪ゲートウェイ(2020/令和2年)、西日暮里(1971/昭和46年)に次いで3番目に新しい。
東京-上野間が高架でつながった際、上野と秋葉原の間に設置された「高架駅」である。これによって山手線は都心をぐるりと1周する環状線となり、11月1日午前4時24分、記念すべき始発電車が品川駅を出発し、御徒町駅にも停車した。
バナー写真は1930(昭和5)年頃のホームを撮影したもので、春日通りをまたぐようにホームがある。下の写真は同じ方向から撮った現在。この高架を「切通橋架道橋」という。
「切通」とは小高い丘を切り開いて造成した道のこと。つまり、近辺に標高の高い場所があったことを示している。事実、御徒町駅から西へ約900メートル行った場所にあるのが「切通坂」、通称「湯島の切通」。湯島の高台と御徒町界隈の低地とを行き来するために切り開いた坂だ。
江戸時代の地理誌『御府内備考』には「天神社(湯島天満宮)と根生院という寺の間の坂なり(中略)本郷より池之端、仲町へ達する便道」とある。池之端・仲町は御徒町の400メートルほど北西にある。その近くの坂の名が高架に残っているわけだ。
高架の左側はアメ横、右側は宝石商が並ぶエリアである。
アメ横は正式には「アメヤ横丁」といい、第二次大戦後にガード下に開かれた闇市だった。飲食類・鍋釜・靴など生活用品が売られていたが、いつしか上野・御徒町の両駅から列車に乗る人々向けに飴屋が出店し、そこからアメヤ横丁の通称になったという。進駐軍が放出したアメリカ物資を扱っていたことからアメ横と呼ばれたとの説もある(角川地名大辞典)。
一方の宝石商は歴史が古い。御徒町は江戸時代、寛永寺や浅草寺をはじめとした寺社に金属製仏具を納める飾り職人が、多く集住する地区でもあった。その職人たちが、明治時代に入ってアクセサリーの製造・加工も行うようになり、隆盛を誇った。1987(昭和62)年には宝石商の親睦・PR団体「JTO」(ジュエリータウンおかちまち)も発足し、国内最大級の専門街に成長している。
そもそもは東北からの敵に備えた軍事拠点
御徒町の地名の由来も、江戸時代の武士「御徒」にさかのぼる。
御徒は「御士」(かち)ともいわれた。「歩行衆」と書いて「おかちしゅう」と読む例もあり(正保年中江戸絵図)、騎乗(馬に乗る)を許されていない下級武士である。身分は御家人で、役目は将軍が外出する際の行列の先導・警護や、江戸城中の雑用だった。
御徒はそれぞれ「組」に属していた。これを「御徒組」という。頭(かしら)の下、江戸城本丸に15組、西の丸に5組あり、各組は組頭2人、御徒28人で編成され、組単位で屋敷を拝領していた(駅名で読む江戸・東京)。その組屋敷があったことから、御徒町と呼ばれるようになったのである。
なぜ、この一帯に御徒の組屋敷があったかというと、日光街道の第一の宿場である千住まで約1里(4キロメートル)だったからだ。
日光街道は奥州街道を経て東北に通じている。万一、東北から江戸が攻められたとき、江戸城を守って盾となる任務を担っていたのが御徒であり、つまり彼らの居住地はそもそも軍事拠点だった(台東区史)。御徒の集住地は本所や深川にもあり、同じく北からの敵の襲来に備えていた。
だが、江戸時代も4代・家綱(在位1651〜80)が将軍に就いて文治政治の時代に入ると、江戸で戦いが起きる可能性はほぼ消滅した。敵を防ぐ必要もなくなり、御徒の仕事は行列を先導するなどに過ぎなくなった。
禄(給料)も低く、年収70俵5人扶持の蔵米知行(給料として米をもらう)だった。御家人はこの米を札差(ふださし/米を担保とする金融業者)で換金していた。
70俵5人扶持を現在の価値に換算すると、
- 70俵=24.5石=1石を1両として24.5両
- 5人扶持=8.9石=同8.9両
- 1両を10万円と換算
- 合計334万円
歴史学者の山本博文は、家族構成を妻・子ども1人、使用人2人の計5人としたうえで、支出も計算している(江戸の銭勘定)。
- 家族5人が食べる米 年間3.75両分=37万5000円
- 衣服や生活費などその他の年間支出23両=230万円
- 合計267万5000円
収入から支出を引くと、計算上は66万5000円が残るが、子どもが成長すれば教育費もかさみ、物価の変動もあった。生活はぎりぎりだった。
そこで「内職」に精を出す。江戸時代に下級武士が内職するのは一般的で、傘張り、竹細工、金魚の養殖、盆栽など多岐にわたっていたが、御徒に人気だったのは朝顔の栽培だった。
文化の大火(1806)後、江戸市中に空き地ができたのを利用し、植木職人たちがさまざまな朝顔の品種改良・栽培をはじめた。「変化(へんげ)朝顔」といわれた珍しいタイプが人気を博した。花弁が風車や、篝火(かがりび)のように開くのが特徴だった。
これが御徒たちに伝わり、組屋敷の中庭で栽培し、販売するようになった。やがて約2キロメートル離れた入谷鬼子母神(真源寺)で朝顔市が立つと、御徒が育てた鉢植えは露店に並ぶようになった。内職による収入は、年間約3両(30万円)だったという。
春日局の名前を冠した「春日通り」
御徒町駅前を通る春日通り──この通りの名称は、徳川3代将軍の乳母を務めた春日局(かすがのつぼね)から来ている。
本能寺の変で織田信長を討った明智光秀の家臣・斎藤利三の娘だったお福が、過酷な戦国時代を生き抜き、家康に抜擢されて家光の乳母となり、のちに春日局の称号を賜ったのはよく知られている。
家光からの信頼はことさら厚く、死去したのちの法号を取った臨済宗の寺院・麟祥院が、駅から約1キロメートル西にあり、春日局が眠っている。寺の前の公園には銅像もある。
麟祥院から約400メートル、徒歩5分の場所にあるのが菅原道真を祀った湯島天満宮である。受験シーズンになると多くの学生が訪れるが、ここでは知られざる一面を紹介したい。「講談高座発祥の地」の碑である。
江戸期、神社は芝居小屋が多く建ち、庶民の娯楽の場だった。湯島天満宮では講談や落語が催された。
講談は戦国時代の合戦を題材としたものが多い。徳川家康が登場する三方ヶ原の戦い(1573)や、大坂の陣(1614〜15)などの話は人気があった。ところが、家康の戦記を庶民が同じ高さで聞いては畏(おそ)れ多い──ということで、高座が設けられたのである。
碑石は、こう刻む。
「文化四年(1807)、湯島天満宮の境内に住みそこを席場としていた講談師伊東燕晋(いとう・えんしん)が家康公の偉業を読むにあたり庶民と同じ高さでは恐れ多いことを理由に高さ三尺一間四面の高座常設を北町奉行小田切土佐守に願い出て許された。これが高座の始まり」
江戸時代に大衆を支配していた「神君」家康の威光を物語る。
御徒町駅からアメ横商店街の雑踏に分け入ること徒歩2分に、徳大寺がある。開運の摩利支天を祀(まつ)るお寺として知られている。創建は1653(承応2)年。聖徳太子作と伝わる摩利支天が鎮座している。
摩利支天は武田信玄に仕えた山本勘助が念持仏(ねんじぶつ/身辺に置いて護り神とする小型の仏像)としていたという。赤穂浪士を率いた大石蔵之助も、吉良邸討ち入りの際に持っていたといわれ、武士にとっては軍神だった。そうした逸話が庶民に広がり、やがて開運厄除・家内安全・商売繁盛の神としても信仰を集め、今も下町で存在感を放っている。
御徒町には、江戸時代の名残が色濃い神社仏閣が少なくない。いずれも駅から1キロメートル圏内に点在しており、散策にはもってこいの街といえる。
【御徒町駅データ】
- 開業 / 1925(大正14)年11月1日
- 1日の平均乗車人員 5万5871人(30駅中22位/2022年度・JR東日本調べ)
- 乗り入れている路線 / なし。ただし東京メトロ日比谷線仲御徒町駅まで徒歩3分、同銀座線上野広小路駅まで2分、都営地下鉄上野御徒町駅まで1分
【参考図書】
- 『角川地名大辞典』竹内理三編 / 角川書店
- 『台東区史』/ 台東区
- 『駅名で読む江戸・東京』大石学 / PHP新書
- 『山手線お江戸めぐり』安藤優一郎 / 潮出版
- 『江戸の銭勘定』山本博文 / 洋泉社
バナー写真:1930(昭和5)年頃の御徒町駅。春日通りにはまだ路面電車の線路がある。鉄道博物館所蔵