上野(JY05): 江戸の鬼門封じ寛永寺のおひざ元、山の手と下町の境に立つ巨大ターミナル
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レンガ造りの初代駅舎は関東大震災で倒壊
上野駅の開業は1883(明治16)年7月28日だった。
当初は民営の日本鉄道・上野-熊谷間(埼玉県)の貨物と郵便を運ぶ列車の始発駅で、木造の仮駅舎だったが、翌1884年に熊谷-高崎間が開通したことで、旅客輸送もスタート。85年にレンガ造りの初代駅舎も完成した。
1906(明治39)年、日本鉄道が国有化されると、3年後の09年には品川-池袋-田端区間の路線名称が山手線と決定。同年、烏森(現新橋)-品川-新宿-池袋-田端-上野間の運転も開始され、多くの路線が集まる一大ターミナルとなった。
1923(大正12)年9月1日、関東大震災にみまわれ、初代駅舎は外観をわずかに残して崩れ落ちた。震災前・後の写真を見比べると、いかに甚大な被害をこうむったか分かる。
震災後は木造の仮駅舎で営業が続けられたが、1930(昭和5)年に再建工事が始まり、32(昭和7)年に2代目駅舎が完成。バナー写真は同年4月2-3日に開催された落成記念式典をとらえたもので、駅前広場を人が埋め尽くしている。政府・建設関係者も多くいたと考えられる。それだけ上野駅が東京にとって重要な存在だったのだろう。この2代目駅舎が現在の基礎となる。
建設した場所は、武蔵野台地の東端にある「上野台」だ。
上野台は地盤の固い洪積層(こうせきそう)だが、崖下は緩い沖積層(ちゅうせきそう)で、人が居住するには不向きだった。そこで江戸時代、幕府は沖積層に土砂を積んで宅地化し、これによって洪積層のエリアが「山の手」、沖積層が「下町」と呼ばれるようになる。
上野駅はその2つの地層の境界に位置する崖に立つ巨大建造物である。
実際、上野駅改札の「不忍口(しのばずぐち)」を出て徒歩で「上野公園口」へ向かうには、急坂を上らなければならない。坂から見ると駅舎が斜面に立っていることが、はっきり分かる。
坂の上には国立西洋美術館と東京文化会館がある。この辺りは海抜18〜19メートルで、ビルがなかった頃は小さな山に見えた。古い近隣住人は一帯を「上野のお山」と呼ぶ。
上野の地名は文明年間に成立した可能性が高い
地名の由来は諸説ある。
- 小高い岡にあり、草の生い茂った野原であったため(江戸往古図説)
- 江戸時代初期に屋敷を賜っていた藤堂和泉守(高虎)の国許である伊賀国(三重県)上野と、地形が似ていた(江戸砂子・遊歴雑記)
- 東にある「下谷」に対して上野と呼ばれた(江戸志)
- 小野篁(おの・たかむら/平安時代の公卿)が上野国(こうずけのくに/群馬県)への赴任を終えたのち、しばらく滞在した(小野照崎神社縁起)
- 木々が繁って人が住めず、鳥の糞(ふん)ばかりだったことから「烏穢野(うえの)」と呼ばれた(出典不明)
一方、上野の地名が確認できる最も古い文献は、鎌倉時代の浄土真宗教団一覧帳「親鸞聖人門侶交名牒」に、覚念という僧侶の住んだ地が「ウへノ」と記されており、このことから12世紀末〜14世紀前半には地名として成立していたとの説もある。ただし、この「ウへノ」が現在の上野を指しているかは、確証がない。
上記のうち有力なのは「江戸往古図説」であると、歴史家の浦井祥子はいう(東京の地名由来辞典/東京堂出版)。
浦井は、上野の地名は文明年間(1469〜1487)に成立した可能性が高いと指摘しており、そうなると鎌倉時代の「ウへノ」は早すぎ、江戸時代の「藤堂和泉守」は遅すぎることになる。「下谷」に対して上野という説も、下谷村が確認できるのは戦国時代からで(東京の地名由来辞典)、文明期より遅い。その他は出典の信ぴょう性に欠けるということだろう。
整理すると、やはり小高い岡──つまり地形に由来するとした『江戸往古図説』が、信頼できるのではなかろうか。
上野の名を冠した地名に「上野広小路」がある。現在、行政地名としては残っていないが、上野3丁目にある繁華街の通称であり、東京メトロ銀座線「上野広小路」駅にその名を留めている。江戸時代は下谷広小路と呼ばれることが多く、歌川広重の『名所江戸百景』では下谷広小路となっている。
「広小路」は、そもそも火災が発生したときに庶民が退避する火除地(ひよけち)だった。6万8000余人の犠牲者を出した明暦の大火(1657)の教訓をいかし、幕府は江戸市中のいくつかの箇所で道幅の拡張工事を行い、火災発生時の避難場所とした。上野は両国・浅草と並ぶ三大広小路といわれた。
造成された場所は寛永寺の門前──つまり寛永寺の参拝道でもあり、将軍家の関係者が寛永寺に眠る歴代将軍墓所に参る際の御成道でもあった。
ところが、広くなった道に目をつけ、いつのまにか相次いで商店や茶屋が出店し、緊急時以外はにぎやかな繁華街として発展していく。商店の代表格が1707(宝永4)年に進出した松坂屋である。この松坂屋を1768(明和5)年、尾張(名古屋)の呉服商・伊藤屋が買収し、経営母体を変えながら、現在まで続く老舗デパートとなる。
上野公園に前方後円墳があるって知ってた?
名所として挙げたいのは、まず寛永寺清水観音堂だ。京都の清水寺をお手本に1631(寛永8)年に創建されたお堂で、幕末の彰義隊の戦いでも焼失を免れた。現存する寛永寺最古の建造物である。
崖造りの舞台を備えた花見の名所であり、2月初午(はつうま/最初の午の日)の秘仏本尊開扉や9月の人形供養など、年中行事も親しまれている。
清水観音堂からは現在は木々に遮られて見えないものの、江戸時代は不忍池が一望できた。
寛永寺の初代住職・天海大僧正は、比叡山の麓にある琵琶湖と、寛永寺のお膝元の不忍池が似た位置関係にあると考えた。そこで琵琶湖の竹生島を模して、人工島を造成した。不忍池の中央にある弁天島である。江戸庶民には人気の散策スポットだった。
現在は外周約2キロメートルの池沿いに、さらに遊歩道が整備され、弁天島に立つ「弁天堂」の参道にはたこ焼き屋などの露天商がよく出店し、下町らしい雰囲気を醸し出している。
清水観音堂から徒歩4分の場所には、上野大佛(仏)がある。顔だけ現存している釈迦如来として有名だ。
江戸時代前期に建立されたのち何度か焼失しては再建され、信仰を集めたが、関東大震災で頭部が落下するとその後は復旧されなかった。第二次世界大戦が始まり、胴体が軍部の金属供出指示によって持ち去られてしまったからだ。
本来は高さ約6メートルを誇っていたという。台東区立下町風俗資料館が往年の姿の写真を絵葉書にプリントし、販売している(※1)。
最後に紹介したいのが古墳だ。なんと上野公園に前方後円墳がある。駅公園改札口から徒歩2分、東京文化会館の脇にある摺鉢山(すりばちやま)古墳だ。
本格的な発掘調査はされていないため被葬者などは一切不明だが、約1500年前の造営と推定でき、現存長70メートル、後円部43メートル、前方部最大23メートル、後円部は道路より約5メートル高い。過去の記録には弥生式土器や埴輪の破片が採集されたとの報告もあり、甘粕健(考古学者)も埴輪片を採集している(『都心部の遺跡』/東京都教育委員会)。
後円部に設置された階段で古墳の頂部に上ると、木々に囲まれたベンチのある小さな公園のようになっている。都会のど真ん中で、古代の権力者の墓の上でくつろぐ貴重な体験をできる場所だ。秋が深まると、落ち葉のじゅうたんで美しく彩られて、一層、風情が増す。
「上野の山」はそもそも寛永寺の敷地であり、寛永寺は比叡山延暦寺をモデルとしている。比叡山は開山が延暦年間(782〜806)ゆえに延暦寺と名付けられ、これにならい、寛永年間(1624~44)に創建されたから東叡山(東の比叡山)寛永寺なのである。
延暦寺は京都の北東にあり、寛永寺もまた江戸城の北東に位置する。北東は鬼門(忌むべき方角)で、両者はともに鬼門封じの役割を担っている。上野の山が首都を災いから守ってくれることを願いたい。
【上野駅データ】
- 開業 / 1883(明治16)年7月28日
- 1日の平均乗車人員14万7777人(30駅中9位/2022年度・JR東日本調べ)
- 乗り入れている路線 / 東京メトロ銀座線・日比谷線、京成本線(京成上野駅まで徒歩1分)、またJR京浜東北線・常磐線・高崎線・東北本線・上野東京ライン、東北・上越・北陸の各新幹線にも接続
【参考図書】
- 『東京の地名由来辞典』竹内誠編 / 東京堂出版
- 『続・駅名で読む江戸・東京』大石学 / PHP新書
- 『山手線お江戸めぐり』安藤優一郎 / 潮出版
- 『東京の歴史地図帳』谷川彰英監修 / 宝島社
- 『山手線 駅と町の歴史探訪』小林祐一 / 交通新聞社新書
- 『都心の遺跡』/ 東京都教育委員会
バナー写真:1932(昭和7)年、駅前広場で開催された新駅舎落成祝賀式典。出典:鹿島建設株式会社
(※1) ^ 資料館は現在休館中。2025年3月リニューアルオープン予定